◆死は懲罰か? 喜びか?◆

信仰者にとって、死は懲罰ではない。

それは、終わりなき喜びに入る門口なのだ。

 

(ピリ 1:21) 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」

 

【解説】 先日、日野原重明先生が105歳の天寿を全うして、天国に凱旋されましたが、多くの天使たちに守られて、この“喜びの門口”を入っていかれたことでしょう。故古山洋右先生は、「死は天国への待合室」と言われ、末期がんの苦しみの中でも、感謝と喜びと賛美に包まれて、天に帰っていかれたそうです。私事ながら、私の母が召天してもう17年になりますが、その葬儀に来てくれた会社の女性の一人は、クリスチャンではなかったのですが、「こんな葬儀なら私もしてもらいたい」と言っていました。

クリスチャンにとって、なぜ死は裁きではないのでしょうか? それは生前善行を積んだからではありません。自らの自己中心と不信仰の罪を認め、イエス・キリストの身代わりの死と復活を信じて、罪を赦されたからです。信じない者にとっての、究極の裁きである“死”の縄目から解放されたからです。なぜ“終わりなき喜びへの門口”なのでしょうか? 主イエス・キリストと共なる永遠の命の世界に入れられるからです。愛する人と再会し、もはや死も悲しみも叫びもない世界で、永遠に主を賛美することができるからです(ヨハネの黙示録21:4)。この確信を持って、私たちは、この喜びの門口をいつでもくぐれるように、死と隣り合わせの人生を、天を仰いで生きてまいりましょう。