◆人の”喜ばせ奴隷”になってはいけません◆

私たちが“他人(ひと)を喜ばせねば”という縄目から自由にされると、…人々はもはや私たちを惨めにしたり、満たされない思いにさせることはできなくなります。

~ケイ・アーサー~

 

【解説】 ここで言っているのは、あふれ出る愛の心に満たされて、進んで人に善を行う、“み霊の実”としての善き行いのことではありません(ローマ15:2)。夫、妻、上司、先生、先輩、いじめるクラスメート…、相手が誰であれ、自分をその人に精神的に隷属させ、絶えず相手の顔色をうかがい、その人に喜ばれることのみに自分の持っているエネルギーを費やす生き方のことです。そうしないと、自分は早晩嫌われる、見捨てられるという“強迫観念”の鎖にがんじがらめにい縛られた、そのような生き方からは、“またダメだった。満足させられなかった。自分はこんなにまでしても、受け入れてもらえない”という、惨めな敗北感と、自己憐憫と、愛の枯渇感しか生まれてきません。

 これは、罪のゆえに、己のアイデンティティー(自己確立・自尊性、主体性)をサタンに売り渡してしまった結果です。“自己中心”という罪は、皮肉なことに、己のことのみを第一に考え、己を世界の中心に置こうとして、その実、真の自分自身をサタンに奪われ、その思いのままにさせる結果になってしまったのです。この罪の縄目を解き放ち、私たちに精神的・霊的自由を取り戻してくれるのは、イエス・キリストを信じる信仰による以外にありません。私たちを救い得る名は、このお方による以外に、天下の誰にも与えられていないのです(使徒4:12)。それが“福音の力”です。

 この力に寄り頼むとき、この世界には、私を縛り付け、思うように支配できる者は、たとえ一国の君主であろうとも、もはや一人もいない。この広い世界には、私を愛し、私のために命を捨てて、“私自身”をサタンから贖い取ってくださった主に在って生きる、“この私”があるだけなのだ。――この“信仰の矜持(きょうじ)”の前に、私を、あなたをかつての惨めな“人の奴隷”に引き戻すものはありません。人々がそうできないのではなく、サタンがその力を失ったからです。

 

"When we are set free from the bondage of pleasing others...then

no one will be able to make us miserable or dissatisfied."

—Kay Arthur