◆あなたの冠は、イバラか? ダイヤか?

主がイバラの冠を見いだされたところに、栄誉ある王冠を探す気など、私たちにはさらさらない。

【解説】 原文では、この2つの冠を、スポルジョンは注意深く使い分けています。「イバラの冠」と訳したcoronetは、王子や貴族のかぶる小さな冠、あるいは女性の冠状の頭飾りです。それに対し「栄誉ある王冠」と訳したcrownは、絶対的権威の象徴として、文字どおり王のかぶる王冠・宝冠です。

 栄光の天を離れて地上に来られ、人の自由と人間性を奪う地上の権力と権威とに立ち向かい、病める者、悲しみ悩む者、虐げられた者の友となられた神のみ子が、最後にかぶらされたイバラの冠は、頭皮に食い込み血が頬を伝う肉体の痛みと共に、恥辱と侮蔑と嘲笑の中に神のみ子としての己の尊厳を踏みにじられる霊の苦痛を伴うものでした。それは、私たち全ての人間が己の罪のゆえに味わうべき痛みを進んで負われた、主の“謙卑”のシンボルだったのです。その愛のゆえに救われ、生かされている私ちは、このイバラの冠(信仰のゆえに味わう試練や、苦しみ)を、今度は主に代わり、進んでかぶらなければならないのですが、現実にはどうでしょうか? 知らず知らずのうちに、地位・名声・財・学識・権力・権威などのこの世の“宝石”のちりばめられた、輝かしい王冠をひそかに求めてはいないでしょうか? 

 私たちの冠は、心の奥深くでかぶるものです。ですから一人一人、十字架の主のみ前に静まって、心の奥深くに、こう問わなければなりません。“私の冠は、主がかぶられたのと同じ、イバラの冠か? それとも、誇らしげにかぶる誉れの王冠か?”と――。

 

(ピリピ 2:6-8)「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 

Far be it from us to seek a crown of honour where our Lord found acoronet of thorn.