◆良き隣人の在り方◆

私には、我が隣人の“欠け”が見えるのだが、私はできる限り、それらには目をつぶることにしているのだ。

 

【解説】 ”良き隣人”と言うと、私たちはすぐあのルカの福音書10章の「良きサマリヤ人」を思い出します。敵対していたユダヤ人を、治療費の負担まで覚悟して介抱した、いわばポジティブ(積極的)な隣人性です。そこへ行くと、このスポルジョンは、いやおうなしに目につく周りの人の不完全性、欠点、欠陥を見ないようにするということですから、ネガティブ(消極的)な隣人性と言えますが、実生活の面では、こちらも、前者に劣らず、いえ、ある意味それ以上に必要なことなのです。なぜなら、あなたの周りの人(最も身近な配偶者、家族に始まって、隣近所の人々、職場の同僚、上司、友達…)とのいざこざや人間関係のトラブルは、相手の欠点が目について、だんだんそれが脳裏に焼き付き、しまいに寝ても覚めても思い出されるところから生じるからです。

えいやっと、一切、目をつぶることです! 金八先生のように、「彼も(欠け多き)人なり、我も(欠けだらけの)人なり」と。

“受容”――ありのままに受け入れること、ここにこそ私たちの心の平安があります。何よりも、それはイエス様がこの私にしてくださったことであり、そのゆえに、私は生かされているのですから――。

 

I can see the imperfections of my neighbour, but I will shut my eyes to them as far as I can.