◆救いはゴルゴタのみにあり◆

救いが、我らの外にあるということを信じるのは、すばらしい知らせではないだろうか?

~マルティン・ルター~

 

【解説】 律法学者やパリサイ派の人々は、神の律法を細部まで守るという、人には決してなしえないことで神の誉れを受けようと考え、悪しき律法主義のかせを人々にはめて苦しめました。その彼らに対し、“業によらず、ただ信じることによって救われる”と説き、あのゴルゴタの十字架で身代わりに命を捨てて、人々の心にある罪の縄目を解き放ってくださったのが、イエス様の福音でした。しかしキリスト教の歴史の中で、いつしか無代価の救いの喜びの福音は、再び中世のローマカトリックの人間的権威の中に、その命を失っていきました。商売人たちは、権力の庇護を求めて財による救済を図り、聖職者たちは権力の座を目指して功徳を積むために、自らのうちに業(修行)による救いを求めました。ルターもその一人だったのです。その彼が、教皇庁の石段を、一段一段、すりむけた膝で登る苦行をしていた時に、忽然として心に響いてきたのが、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4、ローマ1:17)という神の声でした。彼は、自分の業のうちに救いはつゆだになく、それはあのキリストの十字架と復活を信じる信仰のみにあると、全身が震えるような感動の中で悟ったのです。
これは、その彼の言葉です。“救い”は、私たちの内には――自らの学力にも、地位にも、家柄にも(たとえ牧師の家に生まれても)、財力にも、そしてどのように善き業を施しても、どこを探し求めてもありません。救いは、“外”に、あのゴルゴタの十字架の主を仰ぐことの中にのみある。それが、まことの”すばらしい知らせ”、福音なのです。

 

Is it not wonderful news to believe that salvation lies outside ourselves?
-Martin Luther-