◆聖化に”結果オーライ”なし◆

その道程において聖くない者が、三重にも聖い神が栄光のうちにご自身を現される聖なる目的地にたどり着くことなど、できはしない。

 

【解説】 「三重にも聖い神」、面白い表現ですね。つまりスポルジョンは、“言葉に表せないほどの大いなる聖さ”を言っているのですが、そこには、三位一体の神のご性格が暗に表されています。聖い父なる神、聖い子なる神、聖いみ霊なる神の、三重の聖さの中にいましたもう神ということですね。
さて、私たちの社会では、「結果オーライ」「終わり良ければ全て良し」と言って、途中がどうでも、求められた成果さえ出せれば万事上々という、業績至上主義がともすればまかり通りますが、信仰者が歩む聖化の過程では、それは全く通用しません。なぜなら、日々の歩みを聖く保ち、神さまに喜ばれる生き方をしない限り、“キリストのかたち”は決して成らないからです。その意味では、私たちには、「千里の道も一歩より」「ローマは一日にして成らず」という格言のほうが、むしろ当を得ていると言えるでしょう。

もう一つ、この世の業績至上主義と聖化の道の違うところは、後者では、具体的・数字的な目標設定はできないということです。あなたの一日一日の、生けるイエスのみ霊と共なる歩み、そして、その時その時の、罪との戦い――悔い改めと、献身による勝利の積み重ねが全てなのです。そのように歩んだあなたの信仰生活の”実”として、気がついたらいつしか“聖い者”と変えられていた、というのが、神様の望まれる真の“聖化への道”だと私は信じています。

 

(Ⅰテサロニケ 4:3) 「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」

 

He that is not holy on the way will not come to that holy end where the thrice holy God reveals himself in his glory.