◆信仰は完了形か? 進行形か?◆

信仰は、“ひとたび なされた行為”ではない
それは、途絶えることなく、三位一体の神を見つめ続けることだ。
~A.W. トーザー~

 

【解説】 「人たびなされた行為」というのは、完了形です。人生のある時に、“神を信じる”という行為をしたということです。信仰は、そうではなく、やがて神様によって、栄光の姿に変えていただく瞬間まで、連続して、絶え間なく神様を“見つめて”いくことだとトーザーは言います。
けれども、霊である神様を、私たちの肉眼で見ることはもちろんできません。どうすればそんな見えない神様を熟視できるのか? それは、私たちの周りの、目に見える全ての被造物の中に、大きいものにも、小さいものにも、命あるものにも、自然の中にも、“生ける神様”を心で感じることです。あなたの霊のまなこで、神様のみ手をしかと見ることです。そうすれば、「あ、今、神様が語っておられる!」「こんな小さなことの中にも、神様のプランが働いてる!」と、全ての目に見える具象の背後に、私たちは鮮やかに神様を見いだすことができます。ちなみに、“見つめる“と訳したgazeゲイズという言葉は、ただ細かく観察するということではありません。“神様に対する驚きと、喜びと、興味を持って熟視していく”ことです。三位一体の神様という、途方もなく偉大なお方のご本性について、いつも新しい発見をしながら、召されるまで熱い心で、感動をもってじっと見続けていく、これが、“信仰”という生涯をかけた進行形の行為の真髄なのです。

 

Faith is not a once-done act, but a continouous gaze at the triune God.
-A. W. Tozer-