◆語るは主のみ言葉か、己の教訓か◆

 もし私が、神のみ言葉だけを宣べ伝えて、一人の魂も救われないとしたら、王なるお方はこうおっしゃるだろう。「よくやった。善かつ忠なるしもべだ!」 もし私が、自分のメッセージのみを語り、誰もそれを聴こうとしなかったら、王はこう言われよう。「お前は良き戦いを戦った。お前の冠を受けるがよい」と。 

 

【解説】 同じ講壇から語り、聴衆の反応が皆無に等しかったとしても、語る内容によって、報いが違うというのです。神のみ言葉のみを語った者には、主のしもべである私たちが最も聞きたい“金のひと言”を頂くことができます。けれども自分自身の思想に基づく説話に終始した者には、何とも皮肉に満ちたひと言が与えられます。そして受けるのは、主から与えられる義の冠(Ⅱテモテ48)、いのちの冠(黙示録210、ヤコブ112)、朽ちない冠(Ⅰコリント925)、栄光の冠(Ⅰペテロ54)、喜びと誇りの冠(Ⅰテサロニケ219)ならぬ、「お前の冠」です。これは別名「自己満足の冠」といい、自分でかぶせるのです! 主よ、時がよくても悪くても(Ⅱテモテ42)、いえ、今は悪い時代ですが(エペソ516)、あなたのみ言葉のみを語り続け、かの日に、あなたのこのひと言を頂けますように――。 

(マタイ 25:23 『よくやった。良い忠実なしもべだ。』 

 

If I do but preach Gods word, if there never were a soul saved, the King would say, “Well done, good and faithful servant!” If I do but tell my message, if none should listen to it, he would say, “Thou hast fought the good fight: receive thy crown.”