◆”礼拝”と”心配”は犬猿の仲です◆

 

“礼拝”と“心配”は一つ心の中に住むことはできません。それらは互いに相容れないものなのです。

 

~ルース・ベル・グラハム~(ビリー・グラハム博士夫人・故人)

 

 

 

【解説】 この2つ、ちょっと見にはいわゆる“反対語”のようには見えませんが、実はそうだということに、私たちは気づかねばなりません。神様を礼拝しているときに、いろいろな心配事に心を奪われてしまうとき、そこにもはや神様は不在です。その心配事が、神様をあなたの心から締め出しているのです。そのときは、すかさず「心配よ、去れ!」の一喝です。これもサタンの誘惑ですから、み言葉でダメ押しをしましょう。(マタイ4:10)「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

 

一方、あることが気になって気になって、いろいろと悪いほうに考えて半ば絶望的になっているとき、そこにも神様があなたと共にいるスペースは全く残っていません。こんなときは、神様へのSOSの祈りです。まず主の励ましとおしかりを甘んじて受けましょう。(マタイ14:27,31)「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。…信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そしてその場で主を仰ぐのです。「主よ、あなたを忘れていました。あなたが全てを最善にコントロールなさっているのに、またやってしまいました。お赦しください。このことは丸ごとお預けして、ただあなたを礼拝します。私の心をあなただけに向けてください。」

 

そう、“礼拝”と“心配”は「水と油」、「犬猿の仲」なのです。明日は主の日、礼拝の日ですから、まずは明日を目標にしますか? いいえ、本当は、毎日、刻一刻が、“主を礼拝しているか”、“主を締め出して思い煩っているか”のどちらかです。その中間も折衷もありません。あなたの信仰は今、「生ぬるいか、熱いか」のどちらかにする決断をしなければなりません。主の口から吐き出されないうちに――。(黙示録31516

 

 

 

Worship and worry cannot live in the same heart: they are mutually exclusive.”

 

—Ruth Bell Graham