◆自家製人間は困りもの◆

 

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆

 

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

 

―自家製人間は困りもの―

 

 

 

自力で己を仕上げた人間は、まずい仕上げ方をした者である。

 

 

 

【解説】 “自力で仕上げた”と訳した原語のself-madeセルメイドは、あのセルフサービス(自力給仕)と同じ用法です。“自作の/自己の力で成功した/独立独行の”人ということで、self-made manと言えば、“自分の腕一本で叩き上げた人、立志伝中の人、独力で叩き上げた人”ということです。そんな人は、この世では称賛され、模範とされますが、ひとたびキリストを信じた私たちには、はっきり言って間違った生き方です。“神の人”作製マニュアル(聖書!)には、セルフメイド法は入っていないのです。なぜなら、私たちは、イエス・キリストを信じたときに、もはや自分を中心に、自分の力で己を完成させる生き方を放棄して、100パーセント神様の支配権に己の身も心も委ねたからです。神様を知らずにいたときの私たちを導いたのは、自分自身=自我でした。聖書では、そのようにして自己完成を目指す人を“肉の人”と言います。それに対して、信じた私たちをコントロールし、導かれるのは、内なるみ霊です。このような人は“霊の人”と呼ばれます。霊の人は、残された人生の中で聖化の過程を歩み、その目指すゴールは、自らの内に“キリストのかたちが成る”ことです(ガラテヤ4:19)。

 

けれども、私たちのうちには、かのパウロさえ、「私はなんと言う惨めな人間だろう」とうめいたように(ローマ7:24)、生来の“肉”(己の力で救いを完成させようという律法主義)の力との間断なき闘いがあります。“霊”(み霊の力に寄り頼んで救いを完成させようとする、恵みと信仰による生き方)で始めたことを、再び”肉”で完成させようという誘惑は、死ぬまでなくなることはないのです(ガラテヤ3:114)。この誘惑に打ち勝つには、自分で闘うこと(セルフファイト!)ははなから捨てて、その誘惑の一つ一つをキリストの十字架に打ち付けることです。イエス様だけが、あのゲッセマネの園で、“自力で救いを完成させる(=神としての全能のお力で、時の権力者に勝利する)”誘惑に打ち勝ち、父なる神のみ心に従い、私たちの罪を身代わりに負って十字架で死なれ、復活され、約束の聖霊を送られることによって、私たちにまことの“救いの道”と共に、“霊によって救いを完成させる”道を開いてくださったからです。

 

(ガラテヤ 2:19,20 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

ここにのみ、私たちの勝利のカギがあります。この生き方に従い通すときにのみ、やがて私たちは主のみ前で、「Well done! よい仕上げをした!」と言っていただけるのです。

 

 

 

A man who is self-made is badly made.