私は、神はご自身が選ばれた者を救われると信じるが、同時に、もし私が福音を宣べ伝えなければ、人々の血が私の戸口に置かれることもまた信じる。
(レビ記 17:11) 「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
(Ⅰコリント9:16) 「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。」
【解説】 これは、スポルジョンが固く信じる、“救い”における神の主権と、人間の責任の両面からの信条の告白です。人の救いを決定づけるものは、神の“選び”です。しかし、それは、“どうせ神が選ばれた者しか救われないし、選ばれた者は黙っていても救われる。我々には、神が誰を選ばれたかは分からない。だったら何も伝道する必要はない。”という“あまのじゃく論理”を肯定するものでは断じてありません。一方では、“救われなかった者は、永遠の滅びに入れられる”という厳粛な事実があるのです。私たちは、神様が誰を救いに選ばれたか分からないからこそ、一人でも滅びないように、時があるうちに、一生懸命に証しし、伝道しなければなりません。もしそれを怠ったら、私たちの前には、私たちの怠惰のゆえに救われなかった人々の血が無駄に注がれるために置かれるというのです。血は命の象徴です。実に人が救われるかどうかということは、永遠の命に関わる厳粛な事柄なのだということを、改めて心に銘記したいものです。
I believe that God will save his own elect, and I also believe that, if I do not preach the gospel, the blood of men will be laid at my door.
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