◆罪を犯して恐れるのは”正常”です◆

 

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆

 

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

 

―罪を犯して恐れるのは“正常”です―

 

 

 

”恐れ”は、たちの悪い恥ずべき動因ではない。それは咎(とが)ある人間が持つ感情としては、極めて当を得た動因である。

 

 

 

【解説】 “恐れ”が正常だというのも何か変ですが、罪を犯して恐れないのは、それこそ“異常”です。人類で初めて罪を犯したアダムとエヴァがそうであったように、人は罪を犯すと、本能的に“恐れて”神の前から身を隠すのです(創世記3:810)。それは、人間が“善悪を知る”者になった証拠であり(同2:173:5)、自分がそのままでは“神の栄光を受けられない”存在となってしまったことの証拠だからです(ローマ3:23)。その罪を持ったままでは、人間には“裁き”としての死が待っているばかりです(同6:23a)。けれども愛なる神様は、人間が罪に陥って、神の裁きを恐れるようになった瞬間から、彼らを救おうという強い意志をもって、「あなたはどこにいるのか」と人を探し始められました(創世記3:9)。そして神様は、この罪の救いのためにご自身の独り子を十字架につけて身代わりの裁きを受けさせ、今も私たち一人一人に、「あなたはどこにいるのか」と探し求めておられます。この神様に対する私たちの対応は2つだけ、“恐れて身を隠す”か、”恐れおののきつつ、神のみ前に出る“かです(マルコ5:33、ピリピ1:12)。後者は、神様の大いなる救いのたまものである“永遠の命“を、無条件に、ただで受けることです(ローマ6:23b)。そのときにのみ、私たちは”死の滅び”への恐れから、完全に解放されるのです。

 

 しかしこの根源的な恐れからは解放されても、本質的に罪ある存在である私たちは、信仰を持った後でも、様々な状況で”恐れ”を抱きます。罪を犯した魂が恐れるのは正常なのです。ですから、自分の心に何かの“恐れ”があるならば、私たちは、どこかに隠れた”罪”が潜んではいないかと、祈りつつ自分の心の中を探るべきです。その意味で、“恐れ”は、神様があわれみをもって与えてくださった、“認罪”へのバロメーターでもあるのです。

 

 

 

"Fear is not a mean motive; it is a very proper motive for a guilty man to feel."