祈りの課題にするには、あまりに小さな関心事ってことは、
小さすぎて“重荷”にも感じられないってことよ。
~コーリー・テン・ブーム~
【解説】 はい、今日のコーリーおばさんは、皮肉たっぷりに、私たちの愛の足りなさ、冷ややかさに気づかせようとしています。私たちをとりなしの祈りへと駆り立てる原動力は、魂への“重荷”です。重荷とは、その人の抱えている荷を、“自分の荷”として負うことです。そしてその原点は、言うまでもなくイエス様の十字架の愛にあります。
(Ⅰヨハネ 3:16) 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
これが、私たちが兄弟姉妹のために負うべき”重荷”の究極の姿です。その意味で、“祈り”とは“愛”と同義語なのです。もし私たちが、信仰者、未信者を問わず、あなたに関わりのある人の様々な出来事を、あなたの“祈り”から締め出しているとすれば、その人への愛の重荷をも放り投げてしまっていることになります。
キリスト者の人との関わりは、全てが“祈り”の中で、“祈り”を通して成り立っているという真実に、もう一度目を留めなければなりません。私たちのとりなしの祈りの世界に、“小さすぎる関心事”はただの一つもないのです。なぜなら、イエス様がその全てに目を留めておられるのですから――。
“Any concern too small to be turned into a prayer is too small to be made into a burden.”
—Corrie Ten Boom
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