◆乾いた教義は魂を枯らす◆

 

チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”

 

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

 

―“乾いた教義”は魂を枯らす―

 

 

 

神の聖霊の潤いを持たない乾いた教義は、あなたが永遠の滅びに向かうための燃料を作り出すだけである。

 

 

 

【解説】 例によって短い抜粋の一文ですが、キリスト教神学の中で、“聖霊の潤い”の大切さを説くスポルジョンの慧眼には、改めて脱帽せざるを得ません。“dry乾いた”“damping湿った”という言葉遣いも極めて特異で、私たちの関心を引くのに十分ですね。人体で言えば、人の体を湿らせるものは、汗であり、その源になっているのは、体内の血であり、水分です。それがなくなったときに、人は潤いを求めて渇き、やがて身体中が乾いて確実に死に至ります。

 

翻って、キリスト教の教えの中で、他の宗教の追随を許さない完璧な神観を表す三位一体の教義を考えてみると、日々を生きている私たちと最も親しい関わりを持つのは、その第三位格、“内住の聖霊”です。み霊が私たちのうちにご臨在くださることによって、私たちは父なる神、み子イエス・キリストとの生きた交わりができるのです。み霊は、このお二方から遣わされて、私たちのうちに住みたまい、キリスト者である私たちの生き方を、正しくコントロールしてくださいます。このお方がいなければ、父なる神ははるか高みのみ座に超然と座するお方であり、キリストは、2000年に地上を歩まれた、聖書物語の中だけのメシヤになってしまいます。感謝なことに、聖霊のいない三位一体などあり得ないのですが、問題は、その正しい教義が教会で正しく説かれ、教えられているだろうかということです。そうでなければ、キリスト者は、犯した罪をすぐさま示されて悔い改める魂の清廉さも、日々キリストと共なる生活の喜びも、この世との戦いの上よりの力も、神の愛を身をもって人々に示し、魂を救いに導く内よりの力も、一切体験することなく、ただ頭の中だけの不毛の知識の集積に終始し、あなたも、教会も、早晩、“いのち”を失って滅ぶしかありません。そうです、”聖霊の潤い”とは、私たちを、そして教会を、真に生かしめる“いのちの水”なのです。

昨今、「聖霊論」は世界的に新たな脚光を浴びています。この世界が高度に科学化する半面、ますます世俗化の一途をたどるなか、これからのキリスト教の生命線は、一人一人のクリスチャンへの聖霊の“受肉化”にかかっています。日本の教会が、いまひとつ力を失っているのは、このみ霊の働きが、正しく教えられ、この世に出ていくキリスト者一人一人の証しの原動力になっていないからだと私は思います。聖書の中に、”我が内なる聖霊”のお働きを、もう一度探し求めましょう。そして、自らのうちに“聖霊の潤い”を取り戻すために、“主よ、我が内なるペンテコステを与えたまえ”と、ひざまずいて祈る者となりましょう。

 

 

 

(ヨハネ7:37-39 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」

 

 

Dry doctrine, without the damping of the Spirit of God, may only make fuel for your eternal destruction.