◆神への畏れか、不信仰か◆

 

神は人のうちに“聖なる畏れ”をつくられる。サタンは人に“不信仰”を与える。そして私たちは一方を他方と取り違えるのだ。

 

 

 

【解説】 私たちは、信仰が深まるにつれて、神様への聖なる畏敬の念が増していきます。神への信仰と畏れは、本来、車の両輪のように、相携えて深められ、高められていくものです。しかし、光の天使をも装う狡知にたけたサタンは、私たちのうちに“不信仰”を入り込ませ、それを“畏れ”と思い込ませるのです。神様への“畏れ”は、このような取るに足らないものをも愛してくださる神様への深い愛と感謝から生まれますが、サタンが人の心に植え付けた“不信仰”は、それを“恐れ”に変えます。罪の最たるものである不信仰は、その罪のゆえに、神の裁きを恐れ、神の目から私たちを遠ざけようとします。そんなとき、私たちは信仰深く神を畏れているつもりが、いつしか無意識のうちに神を“敬遠”しているのです。かくして、”不信仰”と”恐れ”は、サタンの操る罪の車の両輪になります。この闇の主権者の“からくり”に、私たちはよくよく気をつけなければなりません。神様への”聖なる畏れ”は、決して人を神から引き離すものではありません。いえむしろ、いよいよ大胆に私たちを、“恵みのみ座”に引き寄せるものです(へブル4:16)。もしも自分のうちに、少しでも神様への“心の距離”を感じたら、それはサタンの“不信仰”の注ぎこみの仕業です。すぐその場で、主の十字架のみもとに立ち返ることです。ここにのみ、まことの愛があります。イエス様の愛だけが、あなたの心から不信仰と恐れを締め出し、まことの聖なる畏れへと立ち返らせてくださるのです。

 

(Ⅰヨハネ 4:18 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」

 

 

 

God creates in man holy fear. Satan gives him unbelief, and we often mistake the one for the other.