◆感謝のあとには服従が◆

 

キリストのようであれ。なんとなれば、感謝は服従を必要とするからだ。それによって、この世は、あなたがイエスと共に歩んでいることを知るであろう。

 

 

 

【解説】 現代人が最も嫌がる言葉の一つは“服従”でしょうね。その嫌う程度は、自我の確立と共に高まっていきます。これは、キリスト者と言えども例外ではありません。そこでスポルジョンは、その点でもキリストに倣うべきことを勧めます。我らの主は、最後の十字架の死に至るまで、父なる神に従い通されました(エペソ2:8)。ゲッセマネの祈りに見られるように、人となられたイエス様には、内なる人との大いなる戦いがありましたが、それは決して嫌々ながらの服従ではありませんでした。イエス様には、いつも父なる神様のみ心を行うために地上に遣わされたことへの感謝がありましたし、ご自身のみ心を、父なる神様が弟子たちに表してくださったことへの感謝もひとしおでした(マタイ10:24)。パウロにしても、迫害者であり罪びとのかしらである自分を福音に仕える者にしてくださった神様への、言葉に尽くせぬ感謝がありました。それゆえにこそ彼は、自分の体を打ちたたいてでも、主のみ心に忠実に従ったのです(Ⅰコリント9:27)。このように、私たちが喜んで神様に服従できるのは、湧きあふれる感謝と喜びがあるからです。服従を伴わない感謝は、上辺だけの感謝です。そしてこの服従のあるところに、神様はさらにたまものを増し加えてくださいます。感謝―服従―たまものの付与。これが神様の祝福のサイクルなのです。上よりのたまものを求める人は、まずみ言葉への絶対的な服従から始めなければなりません。それが“イエスと共に歩む”ということであり、“イミタチオ・クリスティ=キリストに倣う”ということです。

 

 

Be like Christ, since gratitude demands obedience; so shall the world know that ye have been with Jesus.