◆絹糸だけではダメなのです◆

 

“福音”の絹糸で縫おうとしても、それに”律法”の鋭い針で道を刺し通さなければ、無駄なことなのです。

 

~ロビー・フロックハート~

 

 

 

【解説】 これはうまい例えですね。律法と福音の相関関係を示すのに、このように美しく理にかなった例えは初めて見ました。この布地を縫って出来上がり、私たちが着るのは、“信仰の衣”、“義の衣”です。また“新しい人”(エペソ4:24)、あるいはずばり“キリスト”(ガラテヤ5:27)と言ってもいい。その布地の裏は、キリストの血潮で緋のように赤いのですが、外側は、罪を赦されて雪のように真っ白なのです(黙示録3:18)。これを縫い上げていく“福音の糸”は光沢のある美しい絹糸。これで縫い上げたら、最高級の衣が出来上がるはずなのですが、そのままでは用をなしません。”律法”の針で、ところどころ、自我でかたくなになっているところをも鋭く穴を開け、福音の糸が通りやすいように“道備え”をしなければ、布地は一歩も前に進まないのです。

 

 私たちを永遠の救いに導く聖書には、キリストの福音だけが記されているのではありません。モーセの律法も記されて、その高い規準には程遠い私たちの罪の実相と、己の力では守ることのできない肉の弱さをあますところなく指し示したのちに、ただ恵みにより、信仰によってのみ救われる、十字架と復活の福音が語られます(エペソ2:8、9)。旧約の律法の道備えがあって初めて、新約の福音は、“救いのよき訪れ”になるのです。これが、パウロをして、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33)と感嘆せしめた、神様の救いのご計画でした。この選びのご計画の中に、このような者まで入れていただき、“白い義の衣”を着せられて、かなたに栄光の王の待つ信仰の馳せ場を歩むことを許されている。これを”驚くべき恵み”と言わずして、なんというのでしょうか?

 

 

 

It is no use trying to sew with the silken thread of the gospel unless we pierce a way for it with the sharp needle of the law.

 

-Robbie Flockhart-