◆”必要”をも創られる神◆

 

これは、基本的な真理です: 神様は、私たちの必要を全てご存じなだけでなく、それらを、私たちの内に、このお方に対するさらに深い飢え渇きの“隠喩”として創られたのです。

 

~ジョイ・ナイト~

 

 

 

【解説】 これは深い洞察ですね。初めてこのことに思い至りました。私たちの外なる人は、全て内なる人の表れです。外に表れた具体的・物質的必要も、実は内なる霊的渇望を指し示すものだったのです。神様は、そのような生きるための必要をさえ私たちに備えられ、その必要を私たちに感じさせ、それをかなえてくださることを通して、あるいは待ち望ませることを通して、究極的に他ならぬ神様ご自身を求めるようにと、招いておられるのです。この事が分かると、私たちは、パウロならずとも、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」(ローマ11:33)と感嘆の声を上げます。神様に創られた人間の心は、アウグスティヌスが告白したように、この創り主、父なる神のもとに帰らない限り、決して安きを得ません。したがって、私たちの心の奥深くには、たとえ罪を犯してこのお方のもとを離れても、あるいは科学の力をもって神の領域を犯しつつある現代においても、この創り主を求め、このお方のもとに帰りたいという、潜在的、本能的な飢え渇きがあります。それは、被造物である人間の、それこそ“人間的な”思いによることではなく、神様がその思いをあらかじめインプットして人間を創られた、“創造のご意志”によることなのです。ここまで思い至りますと、私たちは、このパウロの結びの言葉に、心から「アーメン」と唱和せざるを得ないのではないでしょうか?

 

11:36)「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

 

 

 

It’s a basic truth: God not only knows all our needs, but has created them inside of us as a metaphor for our deeper need for Him.

 

-Joy Knight-