◆神の恵みのかたじけなさ◆

 

神様は、ご自身の恵みを、

 

それに値しない人に、

 

それを求めている人に、

 

あるいはそれによって救われて感謝している人に、

 

執拗なまでに、与えようとしておられます。

 

~ティム・ケラー~

 

 

 

【解説】 ”恵み”、グレイスは、私たちにとって最もなじみのある言葉の一つですが、それがどれほどにすばらしく、かたじけないものか、よくは分かっていないというのが本当のところではないでしょうか。この一文の中で、2つの点に目を留めて、その一端に触れたいと思います。まず1つは、その“対象”の広さです。“恵みに値しない人”とは、ズバリ言って、全ての罪ある人間です。またこれを段階的に捉えて、神に背を向けて、無関心な人、敵対している人。神を恐れず悪の道を歩んでいる人と考えると、〝恵みを求めている人“とは、そこから次の段階に進んで、求道の道にある人ということ、そして最後の”救われて感謝している人”とは、既に信仰の世界に入って、恵みと感謝の内に生かされている人です。このどの段階の人に対しても、神様の恵みは、いずれかに偏ることなく、またどこかの段階でやむこともなく、終生、召される瞬間まで、一方的に、神様のほうから差し出されているのです。

 

もう1つのことは、この恵みを申し出る神様のみ心の“強さ”、“激しさ”です。“執拗なまでに”と訳した原語relentlesslyリレントレスリーは、本来あまりいいことには使われない言葉です。なんとなれば、その意味は、”容赦のない、厳しい、冷酷な”、果ては”残忍な“とさえ訳す言葉なのです。したがってそれを、神様の恵みの程度を表すことに用いたら、その強烈さは推して知るべしです。「私はあなたを恵まずにはおかない。この恵みはどうですか? さらにこれはどうですか? もう一つ、これもあげましょう」…と、まさに恵みが追ってくる、迫ってくる。“すばらしすぎて怖くなる“ような経験をなさったことがあるでしょう?

 

これが、神様の“驚くべき恵み”アメイジンググレイス の二面です。神のみ子が、十字架の上で命を捨ててくださったということは、これほどの恵みの内実を伴った出来事だったのです。

 

最後に、このことに思いを馳せましょう。この恵みを神様が私たちにくださることを示す原語は、giveギヴ “与える”ではなく、offerオファー“申し出る、差し出す、提供する”で、こちらの反応を期待する言葉です。「あなたはこの恵みを、ただ感謝して受けますか? それとも拒みますか? あるいはまだ気づいていないのですか?」という、神様の問いかけを伴った言葉なのです。私たちは、あまりにすばらしすぎて、満たされすぎて、この恵みに慣れてしまわないようにしましょう。あるいは、この世の生きる苦しさに押しつぶされて、どんな小さなことの中にも差し出されている、神様の恵みに気づかないほど、“霊の感受性”を鈍らせないようにしましょう。いえ、私たちは、自分の罪深さを知れば知るほど、この恵みの広さ、深さが、”実感”として分かってこなければなりません。私たちにできるとことは、「神様、ありがとうございます。いただきます。」と、ただ感謝して受け取ることだけではありませんか?

 

(ローマ 5:20 「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

 

 

 

God relentlessly offers His grace to people who do not deserve it, seek it, or appreciate it after they have been saved by it.

 

-Tim Keller-