◆キリスト伝なら聖書です!◆

 

チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”

 

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

 

―キリスト伝なら聖書です!―

 

 

 

キリスト者は、イエス・キリストに著しく似た者となるべきである。あなたは、美しくまた雄弁に書かれたキリストの生涯を読んだことであろう。そしてかくも見事に書くことのできた著者のたまものに感嘆したことであろう。だが、キリストの生涯を記した最高傑作は、彼の弟子たちの言葉と行動によって描き出された、キリストの“生ける一代記”なのである。

 

 

 

【解説】 はい、この”一代記”とは、言わずもがな、四福音書を中核とした「聖書」ですね。スポルジョンの言っていることは、全く正しい。でも、訳者があえて一言 言うなら、「聖書は小説ではない」ということです。名作と言われる小説の中に、ふんだんにちりばめられた文学的技巧を、聖書の中に求めてはなりません。例えば、私が今朝呼んでいた聖書日課の箇所は、創世記22章でした。

 

22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

 

 22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

 

小説なら、絶対にこんな書き方をしない。この22節から23節のようなつなぎ方をしたら、その人は小説家失格です。”美しく雄弁に”小説を書く人なら、このアブラハムの味わった想像を絶する父親の苦悩の一夜を、まるで読者が味わっているかのような筆致で、この父の心の深淵に迫ることでしょう。映画も同じです。「天地創造」のこの場面では、父アブラハムは、岩を両手で打ちたたき、「主よ、なぜです?!」と絶叫しながら、悲しみの一夜を明かしていました。そこで、私たちが、このキリストの”生ける一代記”を本当に自分のものにするために必要なのは、“想像力”です。登場人物に感情移入をして、自分自身に置き換えて、いとも叙事的に書かれた聖書の一行一行の行間を“読み解く”作業がマストなのです。この作業を一年365日、5年、10年…召されるまで続けていく中で、あなたは、内なる聖霊のお働きで、“著しくキリストに似た者”(原文直訳: 人目を引くほどすばらしく印象的に、キリストに酷似した人!)に変えられていくことでしょう。(Ⅱコリント3:18

 

 

A Christian should be a striking likeness of Jesus Christ. You have read lives of Christ, beautifully and eloquently written, and you have admired the talent of the persons who could write so well, but the best life of Christ is his living biography, written out in the words and actions of his people.