たとえ良き業による救いが可能だとしても、自分がなした業が救われるに十分だと確信できる者は、ただの一人もいないのだ。
【解説】 そうなんですね。もし良き業によって救われるとしたら、まず第一に、神様の救いの公平性、平等性が失われてしまいます。業には、必然的に、量的にも、質的にも差が生じるからです。そして何よりも、そこには、ここをパスしたら大丈夫という“合格点”、“到達点”がありません。そのため人は、心の中で、いつも“これではまだ不十分だろうか? それともこれだけやったんだから、もう救われているだろうか? 分からない…。もっと良き業を重ねないと…。”という不安と確信のなさで、結局死ぬまで不毛な努力を続けることになります。人生で、これほど悲惨なことがあるでしょうか? けれども古来、人間の多くの宗教は、この悪しき”律法主義”を、救われるため、安心立命に至るための絶対条件として掲げてきました。キリスト教の異端の中にも、“これしか救われる道はない”と教え込まれて、日々むなしい努力を続けているグループがあります。
(エペソ 2:8,9) 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
私たちが救われるための代価は、イエス様の貴い命によって既に支払われたのです。私たちは、ただ信じるだけで、救われます。この“福音”の恵みを改めてかみしめましょう。
(エペソ2:10) 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
そして、この恵みに安住することなく、喜びと感謝のうちに、神様がすでに備えてくださった良き業をもって、主に仕えてまいりましょう。
Even if salvation by good works were possible, no man can ever be sure that he has performed enough of them to secure his salvation.
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