◆罪の”自殺”◆

 

罪は、救い主を死に追いやったその時、実質的に“自殺”したのだ。なんとなれば、イエスの死は、罪の死となったからである。

 

 

 

【解説】 面白い、そしてちょっぴり衝撃的な言い方ですね。“罪の自殺”! 救い主、神のみ子を十字架につけたのは、人間の最大の罪ですが、その罪を犯した瞬間に、罪もまた自らを滅ぼしたというのです。なぜならキリストは、十字架で罪の支払う最大の報酬である死に打ち勝つことによって、罪に対して勝利宣告をなさったからです(ローマ6:23)。

 

そのイエス様を信じる私たちも、信仰によって罪に対して死んだ者となりました。このお方を信じた瞬間に、私たちの内でも、罪はもはや死んだのです。聖書はこう言います。

 

(ローマ 6:67,11 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。…このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 

これが、神様のみ前における、信仰者の“身分証明”です。けれども実際には、罪はいろいろなところで頭をもたげて、私たちを悩まします。この新しい身分にもかかわらず、しぶとく生きている罪の現実に、パウロ自身が、「私は、本当に惨めな人間です」(ローマ7:24)と絶望的なうめき声を上げました。この、内なる霊と肉との戦いは、主に召されるまで続きますが、その過程で、私たちは、少しずつ少しずつ、キリストのかたちに変えられていきます。罪はその力を次第に失っていくのです。これが“聖化”のプロセスです。しかし、この戦いには、一つ一つ、“勝利”を収めていかなければなりません。一つの小さな勝利が自信となって、次の勝利に結びつきます。そのカギは、自らの“肉”を、その戦いのたびに、罪の絶対的勝利者であるキリストの十字架に釘付けにすることです。執拗に迫る罪の誘惑の背後には、サタンがいます。このサタンに向かって、「私は罪に対して死んだ者だ。お前は私に対して、なんの力もないのだ」と、内なるみ霊の証印のもとに、この身分証明書を突きつけるのです。パウロは、この身分証明書に、このように記しました。

 

(ガラテヤ2:20 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

これが、私たちの神学上の身分を、日々の生活の中で、実際に”証明”していくキーワードになります。勝利を目指すあなたの、主に在るご健闘を祈っています。

 

 

 

Sin virtually committed suicide when it slew the Saviour, for His death became its death.