◆業はついてくる◆

 

私たちは、神に仕える(奉仕する)ことによって救われたのではない。だが、仕える(奉仕する)ために救われたのである。

 

 

 

【解説】 これは、よく知られた、”信仰”と”業”の関わり、聖書で言うなら、パウロ書簡とヤコブの手紙の関わりですね。パウロは行いによらない信仰による救いを力説し、ヤコブは口で救われたと言いながら行いの伴わない不毛な信仰を鋭く問います。でもこの両者は決して対立するものではなく、福音の真理をお互いに補い合い、強め合うものです。(そもそもどちらかが誤っているとしたら、聖書として残されるわけがありません。)この両者の相関関係を、スポルジョンもまた、自分の言葉でこのように簡潔にまとめ上げたのです。私たちもまた改めて、前節によって、ただ信じただけで一方的に与えられた救いの恵みに感謝し、後節によって、自分が救われた神様の目的を再確認し、その目的に沿った歩みをしているか、よく自己吟味をしなければいけませんね。

 

(エペソ2:8,9 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

(ヤコブ 2:14,17 「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。…それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

 

 

 

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