◆罪に怒らない者は◆

 

”罪”に対して怒らない者は、それに味方する者となる。

 

 

 

【解説】 このところ、オリジナル版のスポルジョンの言葉が短いので、翻訳者はいささか困っています。このまま翻訳だけしてご紹介すれば、それで一応役目は果たせるのですが、どうも物足りないし、翻訳のまずさのせいで、間違って理解されたらこちらも責任重大。…ということで、愛読者の方々からたまに頂く「解説がまたいい」などと言うお褒めに、身の程もわきまえずついその気になって、無い知恵を絞って解説していますこと、なにとぞご理解のほど。

 

さて、この言葉は、とりわけ私たち日本人は、心して読まねばなりません。と言うのも、この”罪に怒る”というのが、日本人ほど不慣れで苦手な民族は他にないのではないかと思うからです。島国で、しかも農耕民族である私たちは、いにしえより、性格が穏やかで、近所の人々との和を大切に、“対立”することを極力避けて生きてきました。

 

したがって、大抵のことには「まあまあ、そう目くじら立てずに」という寛容精神で、人に対しても、自然に対しても、“受容”する文化をいつしか培ってきたのです。こんな環境の中では、神様が忌み嫌われる“罪”に対しても、怒ることなく、“清濁併せ持つ”広い心で許容してしまいます。またその罪のせいで、尋常ならざる痛手や苦しみを背負うことになっても、「運が悪かったんだ」と言って“諦めて”しまうのです。この”寛容”と”諦め”の前に、罪を憎み、罪を怒り、罪に抵抗する精神的土壌は生まれません。日本に残念ながらキリスト教がなかなか定着しない大きな理由の一つは、この国民性にあると私は考えています。

 

でも、それでは、私たちはキリスト教信仰の本質を見失ってしまいます。私たちの信じる福音の教えの中で、“愛と赦し”の教理と、”罪を憎み、怒る”教理とは、決して矛盾することではなく、同じ“真理のコイン”の両面なのです。キリストのご生涯が、それを如実に示しています。パリサイ派や律法学者の、偽善や自己保身、愛の冷えた非人間性の罪に対しては、烈火のごとく怒った主が、罪を犯して悔い、嘆く人々は極みまで愛し、最後には「父よ、彼らをお赦しください」と祈って十字架に罪の身代わりの命を捨てられました。ここに、神様の“愛”と“義”が一つになったのです。

 

そんなわけで、私たちは、罪を犯した人を、悔い改める限り、7の70倍も赦すべきですが、罪そのものは、心底憎み、怒らなければなりません。その人の罪をそのままにして受け入れるのは、真実の愛ではありません。本当に相手の人を愛するなら、その愛をもって、罪を指摘し、怒り、悲しみ、共に涙を流すべきです。その真ん中に十字架の主がおられ、そこから真の和解と再生への道が開かれていきます。それが、ご自身のみ子をさえ十字架につけられた、神様のみ心だからです。

 

”罪”はおぞましきもの、怒るべきもの、しかし“悔い改めた罪人”は、神様の愛の懐深くに、しかと受け入れられます。それをこの目で見届けるのが、先に救われた私たち証し人の務めです。ゆめゆめ、”罪”に安易な妥協をして、“罪の加担者”になってはいけません。この覚悟のほどを、まず己の内なる罪に向けて明らかにしていきませんか?

 

 

 

He who is not angry at transgression becomes a partaker in it.