◆剪定されるということ◆

 

“刈り込み”をされるということは、あなたの周りの人々全てが、あなたを“成功者”と判断する基盤を失うということです。

 

~アレン・フッド~

 

 

 

(ヨハネ15:1,2 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

 

(ピリピ 3:4,7-9 「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。…しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」

 

 

 

【解説】 私の団体の教会の先生が、地域の人々との密着型伝道の一環として“便利屋さん”をなさっていて、うちでも庭木の剪定をお願いしています。昨年暮れに、2年分のかなり伸びた枝を下ろしていただいたのですが、ほぼ一日かけて終了した庭を見た時、思わず「おお!」と叫びました。あれほど上に横に伸び放題だった枝々が、見事に刈り込まれていて、広々としています(庭そのものは典型的“猫の額”なのですが)。その庭に、今年も椿が満開になり、きんもくせいの若枝が伸び始め、時が来ればアジサイもツツジもきれいな花をつけてくれることでしょう。

 

私たちも、長年の間には、この世的な“箔”が付いてきます。“成功者”と呼ばれるに足る社会的地位や、身分、業績、財、恵まれた家族…。でも時として、農夫であられる天の父が、それらのものをヨブのように容赦なく刈り込んでしまわれることがあります。上の2つのみ言葉が教えてくれるのは、次の2つです。

 

①刈り込みの理由:  「もっと多くの実を結ぶ」ためです。きれいに“刈り込んで”しまうことが神様の本来の目的ではありません。どんなにこの世で成功しても、神様がそれは「人間的」なものであり、「実を結ばない」と判断なさったときは、「もっと多くの実を結ぶ」ために刈り込まれるのです。

 

②刈り込みのもたらす実: 私たちの主である「イエス・キリストを知る」ということです。もはや己の業に頼まず、ひたすら信仰によって、み言葉と祈りのうちに、キリストをさらに深く、さらに親しく知るのです。それはまた、かの日には、み前に義なる者として立たせていただくという希望に生きる喜びを知ることでもあります。しかしこの実は、決して“自己完成”に終わるものではありません。主は「行って実を結べ」と言われました(ヨハネ15:16)。神様によって義とされ、この世の罪の縄目から解き放たれて、キリストの愛のうちにとどまり、自由に生きるすばらしさを、“出ていって”言葉と行いによって証しするのです。そのときに、私たちは、朽ちることのない、永遠に残る“魂の実”を結ぶことができるのです。

 

 

 

To be pruned is to lose the basis upon which everyone around you measures you as successful.

 

-Allen Hood-