◆主の応えはいつも…◆

 

祈りの家

 

―主の応えはいつも…―

 

 

 

私が「こんな状況の中で、こんな事態に対して、どうすればいいでしょうか?」とみ霊に尋ねると、しばしば彼は、いとも簡単にこうささやかれるのです。「私の言葉を読みなさい!」と――。

 

~ステュアート・グリーヴズ~

 

 

 

【解説】 そうなんですよね! 僭越ながら、この続きを書いてみましょうか。「私は続けて尋ねました。『でも、あなたの言葉を、どうやって見つけ出すんですか? 見つかるまで読むんですか? それに、どうやって自分の直面している具体的な状況に当てはめるんですか?』 するとみ霊は、またもあっさりと、こうささやかれました。「心配しなくてもいい。それは私のやることだ。」

 

このテーマに関して、最近、FBフレンドのある方にコメントしました。皆さんにもお役に立つかもしれませんので、ちょっと長くなりますが、再録しておきますね。

 

Q: 神様の臨在の中にあることを願っていますが、どうすれば感じられるのでしょう?

 

A:そのように願っている時、既に神様の臨在の中に入れられていることを信じていいのです。神様の臨在は、何か恍惚状態とか、特別な心の高揚とかではありません。(それのみが霊的なしるしだと誤解していると、いたずらに自分を祈りに駆り立てて、大きな声で祈ってみたりして、自分の肉の力に頼ることになります。)ただ、「主よ、しもべは聴きます。そして従います。どうぞお語りください」という徹底したへりくだりと従順の思いをもって、「神様が今、私にお語りになっている」と信じてみ言葉を開き、瞑想することです。(イエスの母マリヤのように、思い巡らすのです。)きっと、あなたの心に細い静かなみ声が響いてきます。その時でなくても、あなたの生活の中のどこかで。そのみ声を聞き逃さないこと。このような生活の中で主のご訓練を受けていくと、神様とつながっているあなたの霊の領域が、少しずつ広がっていきます。主のみ声が、すぐにも、またはっきりと、聞こえてくるようになると思います。それは、み言葉が、あなたの魂の中に、”受肉”されていくプロセスです。祝福を祈ります。

 

Q: ご親切を感謝します。「心に細い静かなみ声が響いてきます」とはよく聞くことですが、実際の耳に聞こえるのではなくて、“心に感じる”に近い状態なのでしょうか? また、聖書のみ言葉が今の問題に適用されるということでしょうか? そうではなく、実生活の必要を指示され、幻聴のように教えられることですか? 「主のみ声がはっきりと聞こえる状態になる」ということは、霊的に成長して、現実の耳に聞こえてくることでしょうか?

 

A: 私の経験では、“聞こえる”と言うより“響いてくる”という感じです。中には本当に声が聞こえるという方もいますが、それは人それぞれですので、自分に100パーセント当てはめる必要はありません。でないと、それが聞こえない限り、自分はまだダメなのではないかと思ってしまいますから。プロセスとしては、私たちが読んだみ言葉は、記憶として心の中に“眠って”います。そのみ言葉の中から、現実の私たちの生活の様々な局面の中で、最も必要としている神様のお約束や、ご命令などを、ご聖霊様が取り出して、あなたの心に思い出させてくださるということです。ですから、神様のみ声が聞こえるということは、その声の性質と言うよりも、“強い内的な確信”と言ったほうがより正しいと思います。そこには、“このみ言葉に立ち、これに従っていけば大丈夫。何が起こってももう恐れない。”という“心の強さと、平安”が必ず生まれます。そのことをバロメーターにすれば、まず間違いありません。

 

Q: ありがとうございます。日常生活の難問題で祈り求める時に、日常の言葉で教え導くのではなく、聖書のみ言葉を思い出させて適用なさるということですか? それは確かに無難ですけれど、果たして困難な問題の解決に導くみ言葉が見つかるでしょうか? “生活用語”で教えていただけないのでしょうか? 例えば、使徒8章のピリポのように「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい」だとか、「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい。」と具体的に言われたように。

 

A: ① ”無難”というのは半分は当たっていますが、半分は当たりません。”決して間違っていない真理”という点ではそのとおりですが、”当たり障りのない、安易に適用できる”という意味では間違いです。毎日、コツコツと聖書を読み、蓄えるという根気と努力の要る静思の時の積み重ねが、いざというときに、その人の霊的な生死を決するほどの力を発揮するのです。

 

② 「果たして困難な問題の解決に導くみ言葉が見つかるか」というご心配は、よく分かりますが、それは杞憂というものです。見つけるのは私たちではなく、聖霊の主権的な業であり、その時宜を得た適用の見事さは、到底人間の限られた知恵・知識の比ではありません。信仰生活の成熟の実は、どれだけ“自分中心”の生活から“聖霊主導”の生活に移行しているかによって測られます。聖霊に従うということは、生ける主に従うということです。心配の一つ一つまで、主に委ねて、信じて、歩んでいくことです。

 

③ 上記でご説明したように、み言葉に親しみ、み言葉を日頃しっかり蓄えていると、必要なときに、ご聖霊様が、あなたの具体的な必要に、そのみ言葉を送って、確信やご命令を与えてくださるのですが、その時には、そのみ言葉は、あなたにとっての“生活用語、日常用語”となっているということです。例えば、あなたが挙げた例で言うと、誰かどうしても証しをしてあげたい人がいる。でも、今忙しくてその暇がない。でもその人はこれから田舎に帰ってしまい、今を逃したらチャンスはないかもしれない。そんなときに、「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい。」というみ言葉が響いてくる。それはみ言葉そのものですが、あなたの心の耳には、「今、この人と一緒に駅まで行きなさい。その途中に語りなさい」という言葉になって迫ってくるのです。み言葉が、その時に必要な状況への具体的な意味を持って聴こえる。これを、神様による“み言葉の適用伝達”と言います。

 

これがよく理解できていると、神様のご臨在の中に生きるということのすばらしさが、もう一歩、実感できると思います。祝福をお祈りしています。

 

 

 

When I ask the Spirit what to do in or about a situation, often He just simply whispers, “Read my Word!”

 

-Stuart Greeaves-