◆誘惑の矢はどこまでも◆

 

神なき社会の中だけではなく、クリスチャン社会の中でさえ、私たちは、大きな罪の誘惑に襲われることがある。天の下には、“誘惑の矢”が届かないようなところは存在しないのだ。

 

 

 

【解説】 キリスト者が罪の誘惑に遭う場合、明らかに悪と分かるような姿ではやってきません。サタンは実に巧妙です。“光の天使”を装うのです(Ⅱコリント11:14)。そして、私たちの善意、親切心、正直さ、誠実さなどに訴えてきます。私自身も、最近、大きな誘惑に遭いましたが、相手は、I ask you this as I know you’re Man of integrity.「あなたが“高潔の人”と見込んでお願いするのです」と言って近づきました。“高潔の人”、これは、昨日ご紹介したように、私の最も好きな、そしてモットーとしている言葉です。敵、サタンは、キリスト者がもって矜持(きょうじ)とするひそかなプライド(誇り、自尊心)をくすぐり、持ち上げ、やんわりと突いてくるのです。”罪”の原意はハマルティア“的外れ”ですが、私たちが真に畏れ、へりくだり、誘惑の時には瞬時も目を離してはならないお方の視線から“的を外す”その時、敵の誘惑の矢は、まさに私たちの“心の的”の中心を射抜いていることを、知らなければなりません。

 

(マルコ 14:38 「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。」

 

 

Even in a Christian family we may be seduced into great sin, as well as among the ungodly. There is no place under heaven where the arrows of temptation cannot reach us.