◆求むべきは恵みか? 神ご自身か?◆

 

あなたが、神ご自身よりも神の“贈り物”のほうを喜ぶなら、実際問題として、あなたは神の上にもう一人、別の神をしつらえていることになる。これは決してあってはならないことだ。

 

 

 

【解説】 これは、日頃あまり考えたことのない、ある意味、信仰の“盲点”だと思いませんか? 私たちが、“これも恵み、あれも恵み、感謝、感謝”と、“受ける”ことに慣れてしまったときに、無意識のうちにこの陥穽(かんせい)に陥っているのかもしれません。恵みに慣れるとき、私たちはさらに安易に、もっと恵みを求めるようになります。そして、その恵みの与え主にであられる“神様ご自身を求める”ことを忘れてしまいます。ご自身の独り子をお与えになるほどの、このお方の”愛”の真髄とは何なのか、このお方の持っている一つ一つのすばらしい属性とはどんなものか、人間の罪の現実と、み子キリストによる人類の救い、神の国の完成に至るまでの驚くべきご計画の全貌とは何かを、私たちは、“知識”としてだけではなく、祈りと瞑想による神様との交わりのうちに、”体験的”に知らなければなりません。それは、日々、一瞬ごとの、心の一新による献身を通してであり(ローマ12:1)、霊であられる神様に対して、“霊と真実(まこと)”をもってなされる霊的な礼拝を通してなされるべきものです(ヨハネ4:24)。そのときに、日々与えられる恵みの一つ一つは、どんなにささやかなものであっても、新たな光を放ち、その背後にあって払われた友の祈りと犠牲に思いを馳せ、あなたもまた喜んで、与えられた恵みを他者に分かち合える人になる、“愛の成熟”として実を結んでいくのです。

 

聖書の勧めと、神様のお約束に、今一度耳を傾けましょう。

 

(ホセア6:3 「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

 

(エレミヤ 29:12,13 「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」

 

 

 

If you delight more in God’s gifts than in God Himself, you are practically setting up another God above Him, and this you must never do.