◆キリストなきメッセージよ、消えされ◆

 

もし人が、キリストの名に触れずに一つの説教ができるとするならば、彼の説教はそれを最後にするべきである。

 

 

 

【解説】 キリストのみ名に触れない説教、それはひっきょう、人間の罪に触れない説教、赦しに触れない説教、永遠の命に触れない説教です。そこにあるのは、人の自尊心を“温存”し、安易な自己受容を保証し、悔い改めを必要としない、誠に聴き心地のいい説教、ボンヘッファーの言う“安価な恵み”のメッセージです。そのような“似非(えせ)福音”を語る者は、それを限りに即刻講壇を降りるべしとスポルジョンは言います。でもこれは説教者だけに言われた言葉ではありません。イエス様の福音を委ねられた、キリストの証人である私たち一人一人に対しても言われている言葉です。私たちのどこを切ってもイエス様のみ名が出てくるためには、私も、あなたも、いつ、どこにいても、主の十字架の恵みのもとに生きていなければなりません。受難週は、その生き方の原点を、改めて確認する時です。

 

 

 

If a man can preach one sermon without mentioning Christ's name in it, it ought to be his last.