◆嗚呼、罪に染みたる人間よ◆

 

世界の全ての肉なる心は、押しなべて神に敵対している。それは、母の胸に抱かれる幼児とて例外ではない。私たちは彼らを“無邪気”と言うが、それゆえまさに彼らは、実のところは罪びとなのである。ある詩人が言うように、「最も幼き者の胸にも、一つの“石”が置かれている」のだ。一人の幼子の肉の心には、神への敵意が横たわっている。それは、何かから発達するのではなく、元からそこにあるのだ。ある人は、子どもたちは“マネ”をして罪を覚えると言う。だが違う。一人の子を連れ出して、最も敬虔な影響力のもとに置いてみなさい。その敬虔によって、その子の吸う息まで清めさせるのだ。聖なる峡谷に連れていき、その聖さを絶え間なく飲ませるがよい。彼に祈りと賛美の声以外のものは、聞かせてはならない。その耳は、聖なる歌の調べにのみ向けられるようにするのだ。それにもかかわらず、その子は、なおも最もひどい罪人の一人になるやもしれない。そして、明らかに天への道をまっすぐ歩むようにお膳立てをしたとしても、神の恵みに導かれるのでなければ、彼は滅びの穴に向かい、意気揚々と下りゆくのである。

 

 

 

【解説】 無邪気に母の胸にまどろむ幼子を引き合いに出しての、この厳しさはどうでしょう。これが、スポルジョンが描く、聖なる神のみ前における徹底した“罪人”である人間の姿です。思わず「そこまで言わなくても…」と言いたくなりますが、しかし、人は知らず、まず自分という存在の中に、この厳然とした事実を見据えない限り、神様の恵みの深さも、イエス様の十字架の身代わりの死のかたじけなさも、本当には分からないのではありませんか? こんな私のために、主はゲッセマネに一歩一歩向かわれました。「父よ、小川政弘をお赦しください」と十字架の上で、父なる神にとりなされたのです。その無条件の愛のゆえに、この赦された私がいます。

 

今日からの受難週、私たちも、そんな思いをもって、主と共に、十字架の道行きをいたしましょう。そして主と共に、肉なる心に打ち勝ち、勝利を味わわせていただきましょう。

 

 

 

Every carnal mind in the world is at enmity against God. This does not exclude even infants at the mothers breast. We call them innocent, and so they are of actual transgression, but as the poet says, “Within the youngest breast there lies a stone.” There is in the carnal mind of an infant, enmity against God; it is not developed, but it lieth there. Some say that children learn sin by imitation. But no; take a child away, place it under the most pious influences, let the very air it breathes be purified by piety; let it constantly drink in draughts of holiness; let it hear nothing but the voice of prayer and praise; let its ear be always kept in tune by notes of sacred song; and that child, notwithstanding, may still become one of the grossest of transgressors; and though placed apparently on the very road to heaven, it shall, if not directed by divine grace, march downwards to the pit.