◆我ら、アダムの裔(すえ)なり◆

 

アダムの堕落は、“私たちの”堕落であった。私たちは、彼において、彼と共に堕落したのだ。我らは等しく、“苦しむ者”となったのである。

 

 

 

【解説】 スポルジョンの目は、一方では昨日の”自由意志”のように、人間に与えられた途方もない特権に注がれますが、また一方では、聖書の説く人間の堕落の厳粛な事実にも注がれ、最初の人間の堕落を、自分自身のこととしてしかと見据えることによって、私たちは、神のみ前に、なんとしても“救われなければならない存在”なのだということを知らしめようとします。そしてキリスト者に対しては、”救われた存在”としての恵みの深さ、大きさを――。今日の一節についても、私たちは、続けて次の聖句に思いをはせなければなりません。

 

(ローマ6:16-18 「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

 

 

 

The fall of Adam was OUR fall; we fell in and with him; we were equal sufferers.