◆”自由意志”の教義とは◆

 

“自由意志”の教義、それはなんであろうか? それは、人を神にまで大きくするものである。それは、神の目的を“無効”と宣言する。なぜなら、人がそれに対する肯定の意志を示さなければ、神の目的は遂行されないからである。それは神の意志を、人の意志に対して“仕える下僕”の立場に置かせ、恵みの契約全体は、人間の行為に懸かってくる。不法のゆえに“選び”を否定することは、神を罪人に対する“負債者”の座にとどまらせることになる。

 

~チャールズ・ハドゥン・スパージョン(原音表記)(18341892)~

 

 

 

【解説】 何やら本格的な神学課題となりましたね。一見、なんだか人間が途方もなく大きく、“偉い”ものに、そして神様が申し訳ないほど小さく思えてきて、「これってホント?」と言いたくなりますが、これは神様のみ前における正真正銘の人間の立場です。このようなすばらしい特権を、神様は人間にお与えくださったのです。それはひとえに、人間に対する神様の大きな愛のゆえでした。ちょうど十字架を前にしたイエス様が、み心一つで天の軍勢を呼ぼうと思えばできたのに、それをせず、父なる神様の救いのご計画に従われたのと同じように、天地の創られる前から私たちを選ばれた神様は、そう望まれれば、私たちを一方的にお救いになることは即座にできたのです。なぜそうなさらなかったのか? それは私たちを、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、あるいは全く考えることのない反射的作用によってでもなく、与えられた“自由意志”を正しく用いて、自ら望んで創り主なる神様を信じ、このお方のもとに帰らせるためでした。この人間の“自由意志”が、神様の”選び”を「しかり、アーメン」と肯定し、受け入れるときに、初めて人は救われるのです。これこそはキリスト教教義の最大の神秘、奥義です。

 

しかしながら人間は、その罪のゆえに、この神の恵みと愛の最大のたまものを不法に用い、神を信じることを拒み、その選びを否定して、神に逆らう者となりました。その結果が、スポルジョンが断腸の思いをもってしたためた、このメッセージの最後の部分です。神様を信じない人間は、創り主なる神を、“負債者”=被造物にして不信者なる人間を創ったことへの負い目のある者、罪びととしているのです!

 

受難週を迎えるこの時、私たちは、この骨の髄まで自己中心な者を救わんとして、十字架に向かわれたお方のことを思います。最後まで愛をお示しなろうとして、ペテロ、ユダ、一人一人の汚れた足を、下僕のように洗われた主を思います。あなたには聞こえるでしょうか? 神様が今も、十字架のイエス様において限りなく自らを低くして、「あなたは、その自由意志で、私を受け入れてくださいますか?」と問いかけておられるみ声が――。

 

 

 

Free-will doctrine-what does it? It magnifies man into God. It declares God’s purposes a nullity, since they cannot be carried out unless men are willing. It makes God’s will a waiting servant to the will of man, and the whole covenant of grace dependent on human action. Denying election on the ground of injustice, it hold God to be a debtor to sinners.

 

-C. H. Spurgeon (1834-1892)-