◆主の業は栄誉か? 犠牲か?◆

 

もし地上の王からの委任が栄誉と見なされるならば、“天の王”なる方から託された任務を、どうして“犠牲”と思うことなどできようか?

 

~デイヴィッド・リヴィングストーン~

 

 

 

【解説】 このように言ったリヴィングストーンは、アフリカ伝道の主の召しを受けると、貧困の中で苦学をして聖書学、言語学、医学を修め、やがて“暗黒大陸”と言われたアフリカのジャングル奥深くに分け入り、未開人たちに福音を伝え、また奴隷解放運動に尽力し、現地で病死しました。

 

彼がここで言っている”犠牲”という言葉には、①強いられて事を行う。②損失を覚悟の上で持っているものを差し出す。というネガティブなイメージが伴っています。私たちも、主の業をするよう求められたときに、“損を承知で、不本意ながら、やるべきことはやるしかないという思いはないでしょうか? 彼のこの言葉に続く思いは、「これこそは、この上ない栄誉ではないか? 全てを益としてくださる主に委ねて、喜んで、最後まで、召しに忠実に従っていこう」というポジティブな献身の思いだけであったことは、その後の彼の全生涯が示しています。私事ながら、私は年賀状の冒頭に、その年に示されたみ言葉を掲げますが、今年掲げたみ言葉をお分かちしたいと思います。

 

(Ⅰコリント 15:58 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

 

 

 

If a commission by an earthly king is considered an honor, how can a commission by a Heavenly King be considered a sacrifice?

 

-David Livingstone-