◆水も好きだが、主よ、火を!◆

 

我々バプテスト派は、“水”が好きである。我らの主が、その使用を定められたからである。しかしながら私たちは、“火”をも持たねばならない。天からの火、聖霊の火を!

 

(マタイ3:11 「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」

 

 

 

 

【解説】聖書では、最後の審判の時の、全人類を裁く日のことも書かれていますが(黙示録2021章)、三位一体の神様である聖霊も”火”に例えられており、この天からの火は、もっぱら私たち人間の聖くない罪の部分を焼き尽くして聖めてくださるお方として述べられています。でも“火”は本来怖いものであり、クリスチャンと言えどもそうでない道理はなく、へブル書12章にもその恐るべき裁きと聖めのお働きが述べられていて、かのモーセでさえも、「恐れて震えた」と書かれています(21節)。そして最後の29節には「私たちの神は焼き尽くす火です。」とも。また1コリント3章には、私たちキリスト者の、主のためになした業もまた、主の火によって厳しく吟味されると書かれていますが、「自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」と約束されています(15節)。これらのことから分かることは、

 

  1. 火を恐れることは、人間の自然感情であり、クリスチャンと言えども例外ではありません。でも私たちの場合は、生理的な“恐怖”ではなく、聖なる神様のみ前に、たちおおせるかどうかという恐れです。

  2. 聖霊の火の、上記2つの役割を正しく理解することが大切です。1つは、サタンを筆頭にした悪しき者に対する裁きの火、もう1つはキリスト者の地上での主の業に対する評価の火です。

  3. 前者については、私たちは当然ながら何も恐れる必要はなく、むしろまだ救われていない方々に、信じないまま地上の生涯を終える人々への厳粛なる神の裁きとして伝える責任があります。後者についても、これは私たちがキリスト者として当然受けなければならない神様の評価ですので、畏れはしますが、これによって永遠に裁かれたり、救いの外に再び放り出されるようなことは決してありません。ですから、最善をなさる神のみ手て、自分自身の中に最後まで残るあらゆる不純物を取り除いていただき、キリストの花嫁にふさわしく聖め、整えていただける恵みをこそ感謝して、安んじてお委ねをしたいものです。

 

 

 

We Baptists like water because our Master has ordained the use of it; but we must also have fire, fire from heaven, the fire of the Holy Ghost!