◆”待つ”ことこそ信仰の要諦なり◆

 

とりわけ、神がみ顔を隠されたときには、彼はあなたをお忘れになったと言ってはならない。彼は、よりよく彼を愛するようにさせるために、ほんのしばらく”とどまって”おられるだけなのだ。だから彼が再び戻られたとき、あなたは主に在って喜ぼう。言葉に尽くせぬ喜びをもって、歓喜することになろう。”待つ”ことは、我らの思慮分別を訓練する。”待つ”ことは、我らの信仰を試みる。それゆえに、”希望”を持って待ち望むのだ。“み約束”は、遅れることはあるにしても、決して遅すぎることはないからだ。

 

(ローマ 5:4,5) 「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 

 

Above all, when thy God hides his face, say not, that he has forgotten thee. He is but tarrying a little while to make thee love him better; and when he cometh, thou shalt have joy in the Lord, and shalt rejoice with joy unspeakable. Waiting, exercises our grace; waiting, tries our faith; therefore, wait on in hope; for though the promise tarry, it can never come too late.