私は、自分の内に、この地上で味わうどんな経験も満たすことのできない”願望”があることに気づいた。これについての、最も腑に落ちそうな説明は、“私は別の世界のために創られた”ということだ。
何ものも、まだ“真のかたち”を成してはいないのだ。
(使徒3:21)「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」
(ローマ
8:19)
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」
“神が私たちのために最善を成してくださる”ということを、私たちは必ずしも疑っているわけではない。その最善がなされるときには、どれほどの痛みが伴うだろうかと、思い巡らしているのだ。
(ローマ8:21,22,28)
「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。…神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
I have found a desire within myself that no experience in this world can satisfy; the most probable explanation is that I was made for another world.
Nothing is yet in its true form.
"For the creation waits in eager expectation for the children of God to be revealed" (Rom. 8:19).
We are not necessarily doubting that God will do the best for us; we are wondering how painful the best will turn out
to be.
"All things work together for good to those who love God" (Rom. 8:28).
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