◆聖なるものとなさんとて◆


  1. 神は私たちの体をお創りになった。私たちは、“創った者の責任”云々で、このお方に不快感や怒りを覚えることは当たらない。神は、ご自身のみ手の業に対して、恥じることなど何もありはしないのだ。
    【解説】 「なんでこんな体に産んだの?」「生まれなきゃよかった」「産んでくれって頼んだ覚えはないぜ」私たちは、時としてこのような言葉を親に浴びせます。それは、不完全な自分自身に対する失望といらだちと不安のあまりの叫びなのですが、私たちが本当の創り主を知り、自分がこの世に存在することの意味を悟ったときに、初めて“生かされている”喜びに変わるものです。「こんな私でも、神様に愛されてる」「この体で、神様のすばらしさを証しできるんだ」「産んでくれてありがとう」と――。

  2. 自分の仕事が、”聖なる”ものか、“世俗的な”ものかを決めるのは、あなたが“何を”しているかによるのではない。“なぜ”それをしているのかによるのだ。“動機”が全てである。
    (Ⅰコリント人への手紙1031 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

  3. “個人的な信仰”が聖められるときに、“社会的な信仰”(訳注:教会のこと)は完全なものになる。“からだ”は、その個々の肢体が健康であればあるほど、ますます強くなるのである。
    (1コリント12:14-31参照)

     

    1. W. トーザー)

 

  1. God created our bodies, and we do not offend Him by placing the responsibility where it belongs. He is not ashamed of the work of His own hands.

  2. It is not what a man does that determines whether his work is sacred or secular, it is why he does it. The motive is everything.

  3. Social religion is perfected when private religion is purified. The body becomes stronger as its members become healthier.