◆祈りとは?(3)◆

  1. 祈り“は、「互いに愛し合いなさい」というご命令を具体的に表したものです。なぜなら祈りは、“解放“が必要な人に、それをもたらすことができるからです。
    【解説】これは少し説明が要るでしょうか。この定義は昨日の「祈りとは(2)」の最初、「祈りは全て愛に関すること」に呼応しています。心にあふれるばかりの愛を持っていても、それをなかなか表に出して表すことのできない人がいます。そんな人でも、”祈り”と言う神様とだけの交わりの中では、神様への愛、具体多岐なあの人、この人への愛を、思う存分打ち明けることができます。その人は、祈ることによって、自らを解放しているのです。なぜなら、その人にとっては、「祈りなさい」という戒めは、「互いに愛し合いなさい」という戒めと、本質的に一つだからです。

  2. もし私たちが、人生のある部分は神様に属し、別の部分は自分に属するかのように生きることを求めるならば、”祈り”は、退屈で、困難なものとなるでしょう。
    【解説】 はい、これは当然の帰結ですね。これは“祈り”における聖俗二元主義です。”祈り”は、祈ることそのものに意義があるのではなく、上方風に言うなら、“祈りを生きてなんぼ”の世界です。祈りの中で神様と一つになり、上よりの力を与えられ、この世のただなかに出ていって、人を愛し、人に仕え、神の国の実現のために進んで労してこそ、私たちは”祈りを生きている”と言うことができます。神の世界と人の世界は、あなたの中で一つになっているのです。それが、神様を祈りの中だけに”閉じ込め”、何を祈ったかも忘れて人の中でいたずらに労し、争い、傷つくような生活をしているなら、”祈り”は、なんの生命も生み出さない、おざなりの、苦痛の行為以外の何ものでもなくなるでしょう。

  3. ”祈り”は、何よりもまず”関わり”のことですが、それはまた”結果”についてのことでもあるのです。それは、この地上に、“神様のみ心が成る”という結果です。
    【解説】 主イエス様も、あの最期のゲツセマネの園で、血の汗を滴らせながら、「私の思いではなく、あなたのみ心が成りますように」(ルカ2242)と祈られました。私たちが、週に幾たびも、そして生涯において数え切れぬほど、「み心の天に成るごとく、地にも成させたまえ」と祈るのは、それが主が「このように祈りなさい」と教えたもうた祈りであるからという理由だけではありません。“み心が成る”ということは、実にキリスト者の祈りの“最高峰”であり、キリスト者の生き方の“真髄”なのです。

  1. Prayer is a practical expression of the commandment to love one another because it can bring deliverance to those who need it.

  2. Prayer is boring and difficult if we seek to live one part of our lives as if it belonged to God and another part as if it belonged to us.

  3. Prayer is first of all about relationship, but it is also about results—results that help to fulfill God’s will on the earth.