◆自由!◆

”(束縛からの)自由”は、誰もが生来持っている権利である。ある人は生まれついての物乞いかもしれない。ある人は、素性や親など全く分からない捨て子かもしれない。だが、この自由”は、誰も奪うことのできない、その人の“生得権”なのである。肌の色は黒いかもしれない。教育もなく、何も教わることのないまま生きているかもしれない。“貧困”を絵に描いたように貧しく、自分のものと呼べる土地のひとかけらも持ち合わせず、着るものと言えば、衣服などは皆無に等しく、身をかろうじて覆うほんの少しのぼろきれだけかもしれない。しかしながら、その貧しさのままで、造物主は彼を“(普遍的)自由”をもって装われた。彼には、この“自由である権利”があるのだから、もし彼が、生来の権利である“(束縛からの)自由”を得ていないのなら、それを勝ち取るまでは、満足してはならないのだ。

 

【解説】 彼が例として挙げた肌の色、物乞いや貧困の実態などに、貧民窟の蔓延していたイギリス、悲惨な奴隷制度解放の波が高まっていたアメリカの、19世紀という時代を感じさせますね。でもそれは、決して過去の遺物ではありません。今も、自由のための闘いは続けられているのです。“自由”と訳した原文には、free/freedomフリーとlibertyリバティーの二語が使われています。前者が、普遍的な自由、後者は様々な束縛・拘束からの自由ですので、カッコ内にそのように補訳してみました。スポルジョンの時代には、後者を使う割合が多く、現代では前者が多くなってきているのも、時代の流れです。この違いを踏まえて読むと、最後の彼の結論である、「人間は本質的に自由な存在(free)として創られたのだから、もし何ものかに拘束されて権利としての自由(liberty)を失っているなら、それを再び手にするまで、神の加護のもとに徹底的に闘うべし」という論旨もお分かりいただけると思います。併せてガンディーやマーティン・ルーサー・キングやマンデラのことを思い浮かべる方もおられるでしょう。そしてこの“自由”のテーマの究極の課題は、“罪からの自由”です。「全ての人は罪を犯している」(ローマ3:23)という現実を、自らの力で覆すことのできる人は、どんなに科学技術が発達しても、一人もいません。その死の縄目から私たちを解き放ってくださったのは、あの十字架と復活の主イエス・キリストだけです。聖書は、私たちにこの“自由”を与えることこそ、神様の救いの目的であったと言っています。ですから私たちは、どんなに感謝しても感謝し尽くせぬ思いをもって、信仰のゆえに与えられたこの無代価の恵みを、神様のために、愛のために用いなければならないのですね。

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」 (ガラテヤ513

 

Liberty is the birthright of every man. He may be born a pauper; he may he a foundling; his parentage may be altogether unknown; but liberty is his inalienable birthright. Black may be his skin; he may live uneducated and untaught; he may be poor as poverty itself; he may never have a foot of land to call his own; he may scarce have a particle of clothing, save a few rags to cover him; but, poor as he is, nature has fashioned him for freedom- he has a right to be free, and if he has not liberty, it is his birthright, and he ought not to be content until he wins it.