◆十字架に死ぬということ◆

”死ぬ”ということは、決して楽しいことではない。人生をかたちづくってきた愛すべき、かけがえのないことどもをはぎ取るのは、深い悲しみ以外の何ものでもあろうはずがない。しかし、それがまさに十字架がキリストに対してしたことであり、私たちを“自由”にするために、一人一人に対してもすることなのだ。~A. W. トーザー~

 

【解説】 ここの“死”は、もちろん肉体の死ではなく、“霊的な死”を指しています。それまでの神なしの人生に対する決別を表す“死”、また、信仰者になったあとにも、私たちが、気づいたら救い主なる神様以上に愛し、大切にしていたものに対しての、“第二の死”です。その時に私たちは、“はぎ取る”と訳した rip throughのもう一つの訳語で言うなら、”引き裂かれる”思い、古くからの言い方なら、はらわたもちぎれんばかりの“断腸”の思いを味わいます。でもトーザーは言います、それが、まさに2000年前、神のみ子が、十字架の死において味わわれた、父なる神様との“愛すべき、かけがえのない”交わりの断絶の苦しみだったのだと――。この世のものは、人であれ、物であれ、たとえそれがどんなに魅力的で、愛すべきものであったとしても、深いところで”罪“の縄目に縛られています。そしてそれは、やがては過ぎゆき、消えゆくものです。その縄目を解き放ち、”自由“にしてくれるものは、キリストの十字架の他にはないのです。神のみ子が、私たちにに対する愛のゆえに、そのお苦しみに耐えてくださったのだとしたら、あなたもきっと、耐えられるはずです。十字架のもとに、ひとたび愛するものを差し出して、“自由”になりましょう。そして解き放たれた心で、主の十字架のお苦しみゆえに与えられた、新しい命に生きてまいりましょう。

 

It is never fun to die. To rip through the dear and tender stuff of which life is made can never be anything but deeply painful. Yet that is what the cross did to Jesus and it it what the cross would do to every man to set him free.

-A. W. Tozer-