2019年

6月

30日

◆自分の信仰をチェックする3つの言葉◆

1. 《罪<赦し》
罪を糾弾する声は大きい。
だが赦しを宣言する声はもっと大きい。
(Ⅰヨハネ 1:9) 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(ローマ5:20) 「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
The voice of sin is loud, but the voice of forgiveness is louder.
"If we confess our sins, He is faithful and just to forgive us our sins and to cleanse us from all unrighteousness" (1 Jn. 1:9).

2. 《善き業に大小ナシ》
主のために大いなることをしようと意気込む者は多いが、
小さなことを進んでしようとする者は、ほとんどいない。
~D.L. ムーディー~
There are many of us that are willing to do great things for the Lord, but few of us are willing to do little things.” —D. L. Moody

3. 《信仰と疑問》
信仰は、疑問を取り除くことはない。
けれど信仰は、それをどこに携えればいいかを知っている。
~エリザベス・エリオット~
(エレミヤ 33:3) 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」
Faith does not eliminate questions. But faith knows where to take them. —Elisabeth Elliot

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2019年

5月

01日

◆4人の先達が語る信仰生活の勘どころ◆

1. 《砕かれて初めて分かること》

モーセは、“自分はひとかどの者だ”と考えながら40年を過ごした。 ”いや、自分は全く取るに足りない“と考えながら次の40年を過ごした。 そして次の40年でようやく、”神は、取るに足りない者を用いて事をなさる“と知ったのだ。 ~D.L. ムーディー~

【解説】 これは信仰者の一生のプロセスです。モーセはその”型“、見本ですね。彼は、この真理を悟るのに120年かかりましたが、私たちはそれでは長すぎます。そのために神様は、私たちが無駄な失敗をしないように、聖書の中に”見本“の人物を残したのです。「神様は、無にも等しいこの私を通して、ご自身の大いなるみ業をなさる」――このことを、彼からしかと学びたいものです。 Moses spent forty years thinking he was somebody; forty years learning he was nobody; and forty years discovering what God can do with a nobody. – D.L. Moody

 

2. 《あなたの教会は、大きいのか、聖いのか?》

新約聖書の使徒書簡の大いなる関心は、教会の“大きさ”ではない。それは教会の“聖さ”なのだ。 ~マーティン・ロイドジョーンズ(1899-1981)~ (エペソ5:23、26,27) 「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、…キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

【解説】 あなたは、ご自分の教会に何を求めていますか? 集う人の多さですか? 経済的な豊かさですか? 神様が一番求めておられるのは、“聖さ”です。このエペソ人の手紙の中では、ご存じのように夫と妻の深い関わりを、キリストと教会の関わりになぞらえていますね。すなわち、教会の聖さは、ひっきょう、キリストの体である私たち一人一人の聖さから生まれるのです。聖さを阻むものは、私たちの内になおもしつこく残る“肉”です。一人一人が、神様のみ前に砕かれて、み霊の実を結ばなければならないのです(ガラテヤ5:16-25をぜひ開いてお読みください)。 The great concern of the New Testament epistles is not about the size of the church, it is about the purity of the church.

– Martyn Lloyd-Jones (1899-1981)

 

3. 《正義は神の手に》

私は、正義が神のみ手にあることを感謝する。 ~A.W. トーザー~

【解説】 この世の“正義”はしばしば相対的です。だから時として冤罪が起こり、無実の人が一生を台無しにされてしまう悲劇が起こるのです。しかし神様の正義は絶対的です。それは神の絶対的なご性質(神学用語では“属性”と言います)である“義”に基づくからです。この究極的な“神の正義”を信じられるからこそ、人は、どのような不条理の中でも、神様に委ねて前に進んでいけるのです。この世にこの絶対的な正義が存在しないとしたら、私たちは絶望して生きていくことが嫌になります。それほどに、人間社会は悪と不正で満ちあふれているのです。その現実に思いを馳せると、トーザーが「感謝する」と言ったことの重みが、ひしひしと伝わってきませんか?

I am thankful that justice is in the hands of God. -A.W. Tozer

 

4. 《“祈りと罪”は“水と油”》

”祈り”と”罪”は、人の心の中で同居することは絶対にできません。 祈りは罪を燃やし尽くしますが、 罪は祈りの炎を消し去るのです。 ~J.C. ライル~ 【解説】 “祈り”の反対語は何だろう? 神に頼らない“自尊心”かな。“罪”の反対語は何だろう? “潔白”かな。…などと私たちは考えますが、ライルは、”祈りと罪”こそ、互いに相容(い)れないもの、まさに“水と油”だと言うのです。一瞬、意表を突いた言い方ですが、これもまた真理です。ズバリ言って、人は、罪を持ったままで祈ることはできないのです。仮に罪に目をつぶって祈ったとしたら、その祈りが神様に聴かれることは絶対にありません。神様の目は節穴ではないのです。ですからもし祈りの中で隠れていた罪を思い出したら(それは聖霊のお働きですが)、まずその罪を言い表して、神様の赦しを請わなければなりません。 この言葉が教えるもうひとつ大切なことは、罪を焼き尽くしてあなたを聖めるのは祈りの力だということ、逆に、罪が最も力を振るうのは、あなたを祈れなくすることだということです。実に祈りは、霊の世界でサタンを打ち砕く神様の力を呼び覚ますものであり、あなたが祈らないことこそ、サタンが何にもまして小躍りして喜ぶことだということです。――これがあなたの信仰生活が実を結ぶかどうかのカギです。どうぞ忘れないでください。

Praying and sinning will never live together in the same heart. Prayer will consume sin, or sin will choke prayer. – J.C. Ryle

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2016年

8月

14日

◆天国との距離◆

 

私たちは天国を、はるか遠くにあるもののように話す。だが、そこに籍を持つ者にとっては、話せば聞こえるほどの距離なのだ。

 

DL・ ムーディー~

 

 

"We talk about heaven being so far away. It is within speaking distance to those who belong there.” —D. L. Moody

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2016年

1月

05日

◆あなたは世の海に浮かぶ”船”です◆

 

“時代にはびこる霊”を知り、それへの順応には意識的に抵抗しなさい。D. L. ムーディーが言ったように、「船は世界の海の一部だが、その海水が船の中に入ってきたら、船は沈んでしまう」のです。

 

~ジョン・パイパー~

 

 

 

 

【解説】 これは、“現代の預言者”の一人、ジョン・パイパーが、1世紀前のムーディーとスクラムを組んで、キリスト者の世俗化への警鐘を鳴らした一節です。この霊のもたらす危険性から身を守るには、

 

  1. ”その時代の霊”をよく見抜くこと。原語のspiritは、よい意味では”精神”とも訳されますが、悪い意味では、もちろんその元凶は”悪霊”(サタン)ですから、例えば1940年代のヨーロッパを覆っていたのは、アーリア人種による世界帝国を夢想した一人の権力への狂信者ヒトラーをほしいままに用いた、“ホロコースト(大量虐殺)の霊”でした。この悪しき霊は、今もテロリズムとして、中東を中心に、世界を恐怖に陥れています。そしてもう一つの霊が、物質至上主義の”世俗化の霊”でしょう。人がモノ・カネに至上の価値を置くとき、反比例して愛は冷えていくのです。

  2. その霊の危険性に気づいたら、「意識的に」(一つ一つの事象の中に、その空気を、その“におい”を覚えて、感知して、自覚して)抵抗すること。人類の歴史上、国家権力による弾圧や支配も、あるいは宗教的に堕落した組織も、最後には、良心に従って、時には命を捨てて“抵抗”した人々によって崩壊したのです。

  3. しかし私たちは、神様によって、この世に遣わされた者であることを忘れてはなりません。自らの聖性を守るために、この世に背を向け、人々と共に生きることをやめたら、私たちはたちまち”塩気”を失い、炎の消えた灯心をくすぶらせるだけの存在に堕してしまい、早晩この世を出てしまわなければならなくなります(Ⅰコリント510)。ムーディーによれば、私たち”船”は、あくまで海の一部(belong 海に属するもの、あるべきところにあるもの、海にふさわしいもの)であり、そこを離れては、役に立たない、無用の長物として朽ち果てるしかないのです。けれども、大切なのは水の“上”に浮かんでいることです。世俗化の“波”をもろにかぶり、そのままにしていたら、どんどん船底に水がたまり、許容量を超えたらひとたまりもなく転覆してしまいます。

 

この世に進んで出ていき、この世にありながら、この世の霊に打ち負かされずに生きる、そこにキリスト者の闘いと使命があります。独りでは決してやりおおせない熾烈な戦いです。何度となく水をかぶります。沈みそうになります。そのたびに主イエスに手を差し出して、引き上げてもらいながら、日々を歩んでまいりましょう。

 

(ヨハネ16:33 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 

 

 

 

Know the spirit of the age and consciously resist conformity to it. As D. L. Moody said, The ship belongs in the water of the world, but if the water gets in the ship, it sinks.

 

-John Piper-

 

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2015年

11月

24日

◆信仰は”弱さ”?

現実的でまことの信仰とは、“神の強さ”に寄りかかった、“人の弱さ”である。

 

~ドワイト・L・ムーディー

 

"Real true faith is man's weakness leaning on God's strength."

 - Dwight L. Moody


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