2018年

11月

01日

◆ヨブ、イザヤ、パウロさえ…◆

もしヨブや、イザヤや、パウロらが、一様に「私は汚れた者です」と言わざるを得なかったとすれば、ああ、哀れな罪びとよ、あなたはこの告白に加わることを恥とされるのか?

 

【解説】 ヨブ、イザヤ、パウロ…。彼らは聖書の中でひときわ光を放つ信仰の偉人です。しかし彼らは、聖なる神のみ前に立たされた時、「ああ、主よ、私は汚れた者、堕落し、恥ずべき者、悪質で、鼻持ちならない、卑しい者、無きに等しい者です」(いずれも原語vileヴァイルの訳です)。いいえ、彼らだけではない。アブラハムも、モーセも、ダビデも、エリヤも、ペテロも、皆そうでした。聖い神様のみ前で、己を“汚れなき者”と誇りうる人は、この地上に誰一人いないのです。このスポルジョンの問いに対する答えは、即座に「いいえ」ですね。私たちは、ともすれば、これらの信仰の先達たちの“偉大さ”に圧倒されて、「自分にはとても…」とたじろぎますが、私たちは、彼らの“罪、弱さ、欠け”も、ありのままに見つめなければなりません。そして、この地上でただ一人、罪なき神の子でありながら、私たちへの愛のゆえに、十字架の上で、”罪びと”となる道を選ばれたイエス・キリストに、叫ばざるを得ないのではありませんか? 「ああ、主よ、彼らでさえそうなら、この私は、本当に汚れ果てた者です。どうぞこの罪を赦し、清めてください」と――。

 

(ヨブ40:4) 「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。」

(イザヤ 6:5) 「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

(Ⅰテモテ1:15) 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

If Job, and Isaiah, and Paul were all obliged to say, “I am vile,” oh, poor sinner, wilt thou be ashamed to join in the same confession?

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2017年

8月

24日

◆どこまで言えてます?◆

「すみません」は“言葉”です。

「もうしません」は“約束”です。

「どうやって埋め合わせたらいいでしょうか?」は“責任”です。

 

【解説】 3つの言い方は、過ちを犯した人が、それをどれほど悔いているかの程度を表します。それに比例して、相手の人の“赦し”の程度も深まります。そしてそれは、その後の二人の関係の深まりの程度にも通じるのです。イエス様はこう言われました。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9) “平和”は、黙っていてもそこにあるものではありません。“つくらなければ”ならないのですが、それを実践するのはいかに難しいことか。“平和”というのは、“自分は正しい”と思っている人の間には決して成立しません。国家間においても同様です。それは、へりくだって、自分の非を心から悔いて、進んでそれを償おうとする人の間に、初めて生まれるのです。最後の“責任”という言葉の原文responsibilityは、たとえどんなに負担になっても償おうとする、具体的な強い意志を伴った言葉です。あなたは、どこまで言えてますか? それが、あなたを“平和をつくる人”にするカギです。

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2017年

4月

21日

◆二つの園◆

聖書とは、二つの園の物語です。

一つは“エデンの園”、もう一つは”ゲッセマネの園“です。

最初の園で、アダムは、つまずき倒れました(=堕落)

二つ目の園で、イエスは立ち上がったのです。(=救霊)

~マックス・ルケード~

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2017年

4月

21日

◆目を上げて、とにかく彼を見るのです!◆

私たちは罪に満ちている。

だが救い主は、何としてもご自身を見上げるようにと、

私たちを促しておられるのだ。

 

We are full of sin, but the Savior bids us lift our eyes to Him.

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2016年

9月

01日

◆小石一つで疲労困憊◆

 

1つの小さな罪が、ちょうど靴に入った小石のように、天国への旅人の歩みを、疲れ果てたものにしてしまうのだ。

 

A little sin, like a little pebble in the shoe, will make a traveler to heaven walk very wearily.

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2016年

8月

23日

◆最良の解毒剤◆

 

“神様のうちにある充足感”を見いだすことは、あらゆる罪に対する最も力ある解毒剤です。

 

 

 

~ゲイリー・トマス~

 

 

 

Finding fulfillment in God is the most powerful antidote to any sin.”

 

—Gary Thomas

 

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2016年

7月

15日

◆つまずいても起きられますよ◆

 

不幸なる信仰の退行者よ、主のもとに帰りなさい。主はあなたをあわれんでくださる。彼はあなたの罪を全て消し去ってくださるが、その徹底さたるや、あなたに対し、その罪をもはや永遠に思い出すことはないほどなのだ。

 

 

 

【解説】 いわゆる”信仰の破船”に遭った人は、聖書の中に何人も出てきます。ヒメナオやアレキサンデル(Ⅰテモテ11920)がそうでしたし、主を3度もいなんだペテロも、ある意味そうでした。そして現代、残念ながら教会の中にも、そんな人がいます。ある場合には、自分がつまずくだけではなく、教会の他の人々をも巻き込んで、大きな傷跡を残す人も。そんな人に対する私たちの態度はどうでしょうか? 仮に悔い改めて信仰生活に復帰したとしても、私たちは心の中でこう思ってしまいます。「赦します。でも忘れません。」 イエス様は違うのです。全能の神様は、私たちの一挙手一投足を覚えておられ、しかも永遠に忘れることはありません。そのイエス様が、ご自身の前に悔い改めた罪人の罪を、“思い出すことは永遠にしない”と約束なさいました。ご自身の全能のみ力を、制限なさったのです。そこに、私たちは、神様のあわれみの途方もない深さを見ます。このあわれみのゆえに、今、私たちは、生きることを許されているのです。さあ、あなたも帰りましょう、このお方のもとに――。

 

 

 

(哀 3:22 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」

 

(ホセア 6:1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」

 

 

 

Poor backslider, return unto the Lord, and he will have mercy upon thee; he will blot out all thy sins; and so blot them out that he will not remember them against thee any more for ever.

 

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2016年

7月

08日

◆”悪”に選択肢ナシ◆

 

二つの悪の選択肢があるとしたら、どちらも選んではならない。

 

 

 

【解説】 これは、このスポルジョン語録の最短版ですが、ピリリとした“箴言”ですね。

 

“善”の場合は、“善”なる神様の勧めに従い、私たちは絶えず上を目指します。GoodよりBetterを、BetterよりBestを。でも“悪”の場合は、同じようにBadWorseワースWorstワーストと下を目指すことはできません。そもそも、その選択肢に立ち会ってはならないのです。「日曜に、好きな○○のライブと、ゴルフコンペが重なっちゃった。どっちにしようか。」などと、選択の場に自分を置いたら、サタンはしめたものです。アダムとエヴァの堕罪以来、サタンは誘惑のプロですから、“悪”の要素は巧みにカムフラージュして、おいしい要素だけを並べ、時には「これだって神の役に立つんだよ」と信仰の良心にさえ“悪麻(悪魔)酔”をかけて、「さあ、どっちにする?」とあなたの心のうちにささやいてきます。こんなときは、もう端(はな)から「私、選びません。失敗するので。」と言い放って、その場を逃げることです(このセリフに、にやりとした方は、ドラマ通です)。そのあとには、サタンに打ち勝った喜びと、神様に従った者のみが味わう大いなる祝福が待っているのですから――。

 

 

 

(Ⅰテサロニケ 5:21,22 「しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。」

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2016年

6月

22日

◆罪を犯して恐れるのは”正常”です◆

 

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆

 

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

 

―罪を犯して恐れるのは“正常”です―

 

 

 

”恐れ”は、たちの悪い恥ずべき動因ではない。それは咎(とが)ある人間が持つ感情としては、極めて当を得た動因である。

 

 

 

【解説】 “恐れ”が正常だというのも何か変ですが、罪を犯して恐れないのは、それこそ“異常”です。人類で初めて罪を犯したアダムとエヴァがそうであったように、人は罪を犯すと、本能的に“恐れて”神の前から身を隠すのです(創世記3:810)。それは、人間が“善悪を知る”者になった証拠であり(同2:173:5)、自分がそのままでは“神の栄光を受けられない”存在となってしまったことの証拠だからです(ローマ3:23)。その罪を持ったままでは、人間には“裁き”としての死が待っているばかりです(同6:23a)。けれども愛なる神様は、人間が罪に陥って、神の裁きを恐れるようになった瞬間から、彼らを救おうという強い意志をもって、「あなたはどこにいるのか」と人を探し始められました(創世記3:9)。そして神様は、この罪の救いのためにご自身の独り子を十字架につけて身代わりの裁きを受けさせ、今も私たち一人一人に、「あなたはどこにいるのか」と探し求めておられます。この神様に対する私たちの対応は2つだけ、“恐れて身を隠す”か、”恐れおののきつつ、神のみ前に出る“かです(マルコ5:33、ピリピ1:12)。後者は、神様の大いなる救いのたまものである“永遠の命“を、無条件に、ただで受けることです(ローマ6:23b)。そのときにのみ、私たちは”死の滅び”への恐れから、完全に解放されるのです。

 

 しかしこの根源的な恐れからは解放されても、本質的に罪ある存在である私たちは、信仰を持った後でも、様々な状況で”恐れ”を抱きます。罪を犯した魂が恐れるのは正常なのです。ですから、自分の心に何かの“恐れ”があるならば、私たちは、どこかに隠れた”罪”が潜んではいないかと、祈りつつ自分の心の中を探るべきです。その意味で、“恐れ”は、神様があわれみをもって与えてくださった、“認罪”へのバロメーターでもあるのです。

 

 

 

"Fear is not a mean motive; it is a very proper motive for a guilty man to feel."

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2016年

6月

13日

◆”一巻の終わり”は次の巻の始まり◆

 

“失敗”は、

 

天の父がそこにおられる限り、

 

決して“一巻の終わり”ではありません。

 

~アレン・フッド~

 

 

 

Failure is never final if there is a Father present.

-Allen Hood-

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2016年

5月

31日

◆ミスター・シン(罪)の誘惑の手管(てくだ)◆

 

“罪”は、”もしこれに従えば、私はもっと幸せになる“と信じるよう私を説得することによって、そのパワーを得るのである。

 

~ジョン・G・レイク~

 

 

 

【解説】 このミスター・シンのセリフ、どこかで聞いたような…? そう、これでした。(マタイ 4:9)「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエス様が公生涯に入られる時に、サタンが誘惑した言葉です。身近なところでは、詐欺師たちの甘言もパターンは一緒、「私の言うとおりにすれば、これだけ儲かりますよ」と。罪もサタンも詐欺師も、そこに共通する手段は“欺き”。その誘惑の中心メッセージは、”私に従えば、これほどの益がある“。その目的は私たちをまことの神様から遠ざけることです。彼らに力を与えてはなりません。イエス様のように、み言葉をもって立ち向かいましょう。そして最後はこの一喝です。(マタイ16:23)「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 

 

 

Sin gets its power by persuading me to believe that I will be happier if I follow it.”

 

—John G. Lake

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2016年

5月

27日

◆キリスト者よ、心せよ◆

 

我がきょうだいよ、今一度言う、心せよ。なぜなら、堕落は、キリストの大義(この世に来られた目的=罪びとを救い、永遠の命を与えること)を全く台無しにしてしまうからだ。いかなるものも、神の民の堕落ほどには、信条の半分も、いや千分の一も損なうものではない。嗚呼、まことの信仰者が罪を犯すとき、世の人は彼を指してなんと言うであろうか?

 

 

 

(Ⅱサム 12:14 「しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

 

(詩篇51:4 「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」

 

 

 

【解説】上記2つの聖句は、いずれも、ダビデ王がバテシバとの間に姦淫の罪を犯した時に関するもので、前者は預言者ナタンの断罪の言葉、後者はダビデの悔い改めの祈りです。キリスト者が罪を犯すとき、それはまだ信仰を持たない人が冒す罪よりも、はるかに責任が重いのです。その理由を、この2つの聖句は示しています。

 

① (Ⅱサムエル)主の敵に大いに侮りの心を起こさせ: この罪を拍手喝さいして喜ぶのはサタンです。そしてキリスト教を快く思わない人々、敵対する人々には、「あれを見ろ。どんなに敬虔ぶっても、あんなことをするんだぞ。人の行いには人一倍うるさいキリスト教も、しょせんあんな程度か」とあなどられてしまいます。

 

②(詩篇)あなたに、ただあなたに罪を犯し: キリスト者の罪の結果、汚され、おとしめられるのは、罪を犯した人間の名声でもなければ、過去の実績でもなく、“神様ご自身の聖いみ名”なのです。昔、主君と固い信従の絆に結ばれた武士は、犯した罪が主君の栄誉を傷つけると知ったとき、それだけをもって万死に値するものとして自ら命を絶ちました。まして私たちにおいてをやです。

 

キリストの貴い命をもって贖われた私たちにも、サタンは最後まで、堕罪への誘惑の手を緩めることはありません。”私はしっかりと立っているから大丈夫”とおごることなく、いつもへりくだり、自分の前に主を置いて歩んでまいりましょう。それでも己の肉の弱さのゆえに罪を犯したときは、そんな私のために祈っていてくださる主がおられることを決して忘れずに(ルカ22:32)――。

 

 

 

Once more, my brother take heed, because a fall will so much damage the cause of Christ. Nothing has hurt religion one-half, or one thousandth part, so much as the fall of Gods people. Ah! when a true believer sins, how will the world point at him.

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2016年

5月

23日

◆自分の心に”楽観主義”は禁物です◆

 

あなたは“良い心”をお持ちだろうか? “良い心”ですと?! 預言者エレミヤは、あなたよりは良い心を持っていたが、それでもなおこう言った。(エレミヤ 17:9 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」 いや、そのような深い暗黒の世界を、人が一夜にして学び知り得るわけがない。神だけが、人の心の邪悪さをご存じなのだ。

 

 

 

【解説】 かつて、創造主なる神様は、人間より少し賢く創られた天使が、堕落して奈落の底に落ちていくのを、断腸の思いをもって見送られました。以来、闇の世界の黒い天使、サタンは、人間の敵、神の敵として、私たちの心を傲慢で自己中心の罪の中に閉じ込めてしまいました。イエス様の十字架の救いのみ業は、この神様とサタンの対決の視野から見るならば、いわば必然であり、究極の選択であったことが分かります。私たち人間を、罪から引き出してサタンの力から解放し、ご自身のもとに帰らせるためには、ご自身のみ子の身代わりの死という大いなる犠牲を伴うみ業以外に、サタンの力を封じ込める手段はなかったのです。み子の貴い命と引き換えにすることによって初めて、サタンは十字架の下にその頭を砕かれました(創世記3:15)。それほどに、神様は、サタンの狡猾さを熟知しておられたのです。

 

私は、時として、それまでは”そんなにひどくはないだろう”と思っていた自分の心が、あまりに冷酷で、自分中心で、愛のないものであることを知って、愕然としたことが一度ならずあります。そのたびに、このエレミヤの言葉を思い出し、私は涙して悔い改めました。私たちは、少なくとも事、自分に関しては、”自分はよい心を持っている”という幻想は、決して抱いてはなりません。その逆です。己の心の邪悪さをまだ具体的に味わったことのない方は幸いですが、それでも上記エレミヤの言葉(聖書ですからもちろん真理です!)の、”人”を”私”に読み替えて、いつも覚えていることをお勧めします。そして不幸にしてそのような自分の姿に直面した時は、そのままで、主のみもとにゆくことです。十字架の主にのみ、赦しがあります。そのときのあなたを苦しみと絶望から救うためにも、主は命を捨ててくださったのです。

 

(Ⅰヨハネ 1:9 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

 

 

Good hearts, have you? Good hearts! Jeremiah had a better heart than you, yet he said, “The heart is deceitful above all things, and desperately wicked; who can know it?” No, the black lesson cannot be learned in a night. God alone knows the evil of the heart.

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2016年

5月

22日

◆罪はウイルス、増殖します!◆

 

キリスト者よ、気をつけたまえ。もしあなたが罪を軽く考えるなら、あなたはかなり無遠慮になってしまっている。倒れないように注意することだ。「ほんのささいな罪さ。毒にもならないって!」 それがあなたの命取りにならないと誰が知ろう?

 

 

 

Christian, beware when thou thinkest lightly of sin then thou hast become presumptuous. Take heed, lest thou shouldst fall. Sin-a little thing! Is it not a poison! Who knows its deadliness?

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2016年

5月

17日

◆真の悔い改めのない人◆

 

悔い改めと信仰は、新生を体験していない人には、不快なものである。彼らは、独りで本当の悔い改めの涙を流すよりは、人前で千回もの祈りを繰り返すことであろう。

 

 

 

"Repentance and faith are distasteful to the unregenerate; they would sooner repeat a thousand formal prayers than shed a solitary tear of true repentance."

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2016年

5月

12日

◆罪や誘惑に陥ったら◆

 

もしあなたが、罪や誘惑に陥ったら、あなたが今日できる最も生産的かつ最も解放的なことは、

 

立ち止まり、

 

罪を告白し、

 

神様は誠実に罪を赦してくださることと、

 

あなたの内に始められたことを誠実に成し遂げてくださることを信じることです。

 

~ジョイ・ナイト~

 

 

 

【解説】 なすべきこと4行のうち、2行目、3行目は、私たちもよく知っています。この一文の新鮮なところは、

 

まず1行目、「立ち止まること」。これは、罪や誘惑に陥ったと気づいたら、①そこから一歩も先に行かない、それ以上絶対に深入りしないということです。

②同時に、その場で振り返り、どこでどのように道を踏み外したか、静まって考えるのです。そして、そこで示された罪を、一つ一つ正直に神様のみ前で(2行目)告白することです。
次に教えられることは4行目、「神様は、私を通してなそうとされたことを成し遂げてくださる」と信じること。私たちがひとたび罪や誘惑に陥ったことに気づくと、決まって襲われるのは、諦め観、さらには絶望感です。「もうダメだ。もう前には進めない。神様は悔い改めたら、犯した罪は赦してくれるかもしれないけど、私が主のためにやろうとしていたことはもう罪に染まってしまった。神様はこんな者に、主の大切な業をお任せになるはずはない。ダメだ。諦めよう…。」 ちょっと待って! それがサタンの手です! あなたがそんな絶望の深みにはまり込んだら、サタンにはしめたもの。そこでこの4行目の信仰が絶対に必要なのです。いいですか、惨めな自分に目を向けさせるのはサタンの最も得意とする武器、そのときにこそ、目を上げて、あなたの弱さも、欠けも全部ご存じの上で、あなたに大切な業を委ねられた神様をまっすぐに見つめるのです。そして、声を出して、サタンにはっきりと聴こえるように、この聖句を読み上げてください。2度読みます。2度目は、「あなた方」を「私」に読み替えて。
(ピリピ1:6) 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
人は気がつけば、罪を犯し、誘惑に陥ってしまう弱い者です。でもそのときには、ここに戻ってください。そして特に2行目、4行目をお忘れにならないように。そのときに、神様は、その罪をも聖めて、さらなる恵みの高嶺へと引き上げてくださいます。祝福をお祈りします。
 
 

If you’re caught in sin or fall into temptation, the most productive, most liberating thing you can do today is stop, confess, and believe that He is faithful to forgive and faithful to finish the work He has started in you.

 

-Joy Knight-

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2016年

4月

13日

◆美しい足の裏にご用心◆

 

―美しい足の裏にご用心―

 

 

 

“罪”の虎のベルベットのような足は、かき裂く鋭い爪を隠している。

 

 

 

【解説】 笑う場ではないのですが、数時間前に、「猫のモフモフ足の陰には鋭い爪が」と言ったばかりなので、この偶然に少しばかりおかしくなりました。でも相手が”罪”となれば、笑ってはいられません。虎も、ビロード(昔はこう言いました)のように光沢のあり、滑らかな自慢の足を、”罪”の代名詞にされてはいい迷惑でしょうが、虎の足も猫の足も(ちなみに、猫は虎に比べてあんなに小さくても、れっきとしたネコ科の元祖で、虎も百獣の王のライオンも、皆ネコ目ネコ科です!…あ、これは脱線。)、状況によっては”凶器”に変わるというのは事実ですので、“罪”の本質を例えるには最もふさわしいと人間に認定されたということで、ここは諦めてもらいましょう。人間が、虎の足の毛並みの美しさに心を奪われ、愛撫しようとすると、とたんに隠された鋭い爪が襲いかかる…、それと同じように、あまりに美しいもの、“まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするのにいかにも好ましいもの”(創世記3:6)には、十分に気をつけねばなりません。私も最近、この爪に大きな傷を負いました。「私は大丈夫、これこのとおり立っている」と思うときは、 倒れないように重々気をつけなければなりません。サタンが悪の力の限りに意を注ぐのは、”罪を偽装する”、”罪を罪でないように見せかける”こと、そのために、”罪を最も美しく装う”ことです。その極みとして、“天使”をさえ装うのですから! この罠に陥らないためには、神様に祈るしかありません。「主よ、真実と偽り、正しいものと悪しきものを見分ける知恵をお与えください。」そして真心を込めて“主の祈り”の一節、「我を試みに遭わせず、悪より救いいだしたまえ」と――。

 

(Ⅰコリント10:12 「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」

 

(Ⅱコリント 11:14 「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」

 

 

 

The velvet paw of the tiger of sin conceals a lacerating claw.

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2016年

4月

11日

◆罪を憎まば名前まで◆

 

悪臭漂うがごとき罪に、まともな呼び名を与えることはない。罪はなんとでも好きなように呼べばいい。その名よりも甘美に匂うことはないのだ。

 

 

 

【解説】 スポルジョン、容赦がありませんね。ちなみに、もともと“狩猟闘争型”の血が流れている欧米人には、ののしり語が豊富なのです。Fuck you! Mother Fucker! Holy shit! Bullshit! Asshole! Bitch! Son of a bitch! Damn it!などなど、原文の意味は書くもはばかられるほど。それに対して、先日も書きましたが、農耕型の日本人には、ののしり語の語彙が少なく、映像翻訳者は苦労します。原語でかなり露骨なののしり語を使っていて、ほんとはそれを正しく出したほうが話者の憎しみが伝わるのに、ふさわしい日本語訳をさんざ考えても、字数の制限もあって、字幕は結局「野郎!」「畜生!」「アホ!」「バカ!」で終わってしまうのです。それはさておき、スポルジョンの言わんとするところは、それほどに”罪”は忌まわしいもの、徹底して、その臭いさえ忌み嫌うべきものだということですね。私の鼻につく臭いは、“傲慢臭”です。主の前に本当にへりくだっていない人は、1分話せば、その臭いは漂ってきます。その一方で、私たちは、自分自身のことを考えなければなりません。”私は、良きキリストの香りを放っているだろうか?”と。嫌な口臭が自分では気づかないように、知らず知らずのうちに、言葉と行いで、不快な臭いを発していないだろうか? いつもみ言葉と祈りの中で、神様に探っていただかなければなりません。そしてへりくだって、人の話を素直に聞ける者になりたいと思います。

 

(Ⅱコリント2:14,15 「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」

 

 

 

Do not give fair names to foul sins; call them what you will, they will smell no sweeter.

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2016年

4月

08日

◆罪に怒らない者は◆

 

”罪”に対して怒らない者は、それに味方する者となる。

 

 

 

【解説】 このところ、オリジナル版のスポルジョンの言葉が短いので、翻訳者はいささか困っています。このまま翻訳だけしてご紹介すれば、それで一応役目は果たせるのですが、どうも物足りないし、翻訳のまずさのせいで、間違って理解されたらこちらも責任重大。…ということで、愛読者の方々からたまに頂く「解説がまたいい」などと言うお褒めに、身の程もわきまえずついその気になって、無い知恵を絞って解説していますこと、なにとぞご理解のほど。

 

さて、この言葉は、とりわけ私たち日本人は、心して読まねばなりません。と言うのも、この”罪に怒る”というのが、日本人ほど不慣れで苦手な民族は他にないのではないかと思うからです。島国で、しかも農耕民族である私たちは、いにしえより、性格が穏やかで、近所の人々との和を大切に、“対立”することを極力避けて生きてきました。

 

したがって、大抵のことには「まあまあ、そう目くじら立てずに」という寛容精神で、人に対しても、自然に対しても、“受容”する文化をいつしか培ってきたのです。こんな環境の中では、神様が忌み嫌われる“罪”に対しても、怒ることなく、“清濁併せ持つ”広い心で許容してしまいます。またその罪のせいで、尋常ならざる痛手や苦しみを背負うことになっても、「運が悪かったんだ」と言って“諦めて”しまうのです。この”寛容”と”諦め”の前に、罪を憎み、罪を怒り、罪に抵抗する精神的土壌は生まれません。日本に残念ながらキリスト教がなかなか定着しない大きな理由の一つは、この国民性にあると私は考えています。

 

でも、それでは、私たちはキリスト教信仰の本質を見失ってしまいます。私たちの信じる福音の教えの中で、“愛と赦し”の教理と、”罪を憎み、怒る”教理とは、決して矛盾することではなく、同じ“真理のコイン”の両面なのです。キリストのご生涯が、それを如実に示しています。パリサイ派や律法学者の、偽善や自己保身、愛の冷えた非人間性の罪に対しては、烈火のごとく怒った主が、罪を犯して悔い、嘆く人々は極みまで愛し、最後には「父よ、彼らをお赦しください」と祈って十字架に罪の身代わりの命を捨てられました。ここに、神様の“愛”と“義”が一つになったのです。

 

そんなわけで、私たちは、罪を犯した人を、悔い改める限り、7の70倍も赦すべきですが、罪そのものは、心底憎み、怒らなければなりません。その人の罪をそのままにして受け入れるのは、真実の愛ではありません。本当に相手の人を愛するなら、その愛をもって、罪を指摘し、怒り、悲しみ、共に涙を流すべきです。その真ん中に十字架の主がおられ、そこから真の和解と再生への道が開かれていきます。それが、ご自身のみ子をさえ十字架につけられた、神様のみ心だからです。

 

”罪”はおぞましきもの、怒るべきもの、しかし“悔い改めた罪人”は、神様の愛の懐深くに、しかと受け入れられます。それをこの目で見届けるのが、先に救われた私たち証し人の務めです。ゆめゆめ、”罪”に安易な妥協をして、“罪の加担者”になってはいけません。この覚悟のほどを、まず己の内なる罪に向けて明らかにしていきませんか?

 

 

 

He who is not angry at transgression becomes a partaker in it.

 

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2016年

4月

04日

◆罪の半分は舌から!◆

 

もし人間の罪が2つの束に分けられるとしたら、その半分の1束は、“舌の罪”であろう。

 

 

 

【解説】 “舌の罪”! あな恐ろしや、私の話す“言葉”による罪です。聖書の罪のリストを見てみましょう。

 

(マルコ 7:20-23 「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 

これらの中で、「欺き、そしり」は明らかに舌の罪です。これ以外も、「ウソ、偽り、侮蔑、罵倒、辱め、言い訳、自慢、自己主張…」 全て私たちの口を突いて出ます。そして人を傷つけ、悲しませ、怒らせ、時には絶望の淵に追い込ませ、ついには死にさえ至らせる。これはある意味、瞬間的な殺人よりも残虐な舌の“行為”です。だからこそヤコブも言うのです。

 

(ヤコブ1:26 「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」

 

3:5,6,8-10)「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。…しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」

 

私たちは、言葉と行いによって、生ける主を褒めたたえ、このお方を信じて生きることのすばらしさを証しします。けれども、気をつけないと、同じ言葉と行いによって、“日常的に”己を高め、他者をおとしめる罪を犯し、時には取り返しのつかない深みに陥ることもあるのです。毎朝、こう祈らざるを得ませんね。「主よ、今日の一日も、私の“舌”にあなたの門守を置いてください。この唇を正しくコントロールできるよう、上からの思慮分別をお与えください。言葉が口をついて出る前に、私の心を聖めてください。」と――。

 

 

 

If all men’s sins were divided into two bundles, half of them would be sins of the tongue.

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2016年

3月

20日

◆嗚呼、罪に染みたる人間よ◆

 

世界の全ての肉なる心は、押しなべて神に敵対している。それは、母の胸に抱かれる幼児とて例外ではない。私たちは彼らを“無邪気”と言うが、それゆえまさに彼らは、実のところは罪びとなのである。ある詩人が言うように、「最も幼き者の胸にも、一つの“石”が置かれている」のだ。一人の幼子の肉の心には、神への敵意が横たわっている。それは、何かから発達するのではなく、元からそこにあるのだ。ある人は、子どもたちは“マネ”をして罪を覚えると言う。だが違う。一人の子を連れ出して、最も敬虔な影響力のもとに置いてみなさい。その敬虔によって、その子の吸う息まで清めさせるのだ。聖なる峡谷に連れていき、その聖さを絶え間なく飲ませるがよい。彼に祈りと賛美の声以外のものは、聞かせてはならない。その耳は、聖なる歌の調べにのみ向けられるようにするのだ。それにもかかわらず、その子は、なおも最もひどい罪人の一人になるやもしれない。そして、明らかに天への道をまっすぐ歩むようにお膳立てをしたとしても、神の恵みに導かれるのでなければ、彼は滅びの穴に向かい、意気揚々と下りゆくのである。

 

 

 

【解説】 無邪気に母の胸にまどろむ幼子を引き合いに出しての、この厳しさはどうでしょう。これが、スポルジョンが描く、聖なる神のみ前における徹底した“罪人”である人間の姿です。思わず「そこまで言わなくても…」と言いたくなりますが、しかし、人は知らず、まず自分という存在の中に、この厳然とした事実を見据えない限り、神様の恵みの深さも、イエス様の十字架の身代わりの死のかたじけなさも、本当には分からないのではありませんか? こんな私のために、主はゲッセマネに一歩一歩向かわれました。「父よ、小川政弘をお赦しください」と十字架の上で、父なる神にとりなされたのです。その無条件の愛のゆえに、この赦された私がいます。

 

今日からの受難週、私たちも、そんな思いをもって、主と共に、十字架の道行きをいたしましょう。そして主と共に、肉なる心に打ち勝ち、勝利を味わわせていただきましょう。

 

 

 

Every carnal mind in the world is at enmity against God. This does not exclude even infants at the mothers breast. We call them innocent, and so they are of actual transgression, but as the poet says, “Within the youngest breast there lies a stone.” There is in the carnal mind of an infant, enmity against God; it is not developed, but it lieth there. Some say that children learn sin by imitation. But no; take a child away, place it under the most pious influences, let the very air it breathes be purified by piety; let it constantly drink in draughts of holiness; let it hear nothing but the voice of prayer and praise; let its ear be always kept in tune by notes of sacred song; and that child, notwithstanding, may still become one of the grossest of transgressors; and though placed apparently on the very road to heaven, it shall, if not directed by divine grace, march downwards to the pit.

 

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2016年

3月

15日

◆罪は、殺すか殺されるかです◆

 

もしあなたが罪に対して死ななければ、罪のために死ぬことになる。

 

もしあなたが罪を葬り去らなければ、罪があなたを葬り去ることになる。

 

 

 

【新共同訳】(Ⅰペトロ 2:24 「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

 

 

 

【解説】 「葬り去る」と訳した原語slayは、文字どおり「殺害する」という意味の他に、「根絶する」という意味もあります。クリスチャン的に言えば、これは「聖絶する」、神のみ名において、徹底的に根絶やしにするということですが、これは私たちの力ではできません。そもそも“罪”は、サタンの“所有物”ですから、私たちが罪を犯したとき、サタンがまずやることは、罪を罪と認めさせないこと、巧みにカムフラージし、いかにももっともらしい理由を持ち出して、自分を正当化させることです。これができたらサタンはしめたもので、私たちの良心はマヒし、周りから指摘されればされるほど意地になり、事態を破壊的結末に向かって拡大させていくことになります。私たちは、罪を犯したそのときに、細く小さな声でささやかれるご聖霊のみ声に、素直に従わなければなりません。そして、その小さな罪を、小さいうちに、断固として“葬り去る”のです、主の十字架のもとで! そのためにイエス様はお苦しみを受けました。主の受難を覚えるこの時、何よりも思いをはせなければならないのは、このことではありませんか?

 

 

 

If you do not die to sin, you shall die for sin.

 

If you do not slay sin, sin will slay you.

 

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2016年

1月

06日

◆最大の苦しみの作業◆

 

”罪”を征服するには、苦しみが伴います。苦しんでも神様のみ心を行うか、苦しまずに自分の感じたままを行うかの、いずれかなのです。

 

 

 

~フランシス・チャン~

 

 

 

"The conquering of sin requires suffering. Either I suffer and do the will of God or I dont suffer and I do what I feel." Francis Chan

 

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2015年

12月

12日

◆嗚呼、おぞましきは我が心◆


ほんの一瞬でいい、あなたの心の窓の内側を、そこに何があるかを見るために、のぞき込んでみるといい。そこには“罪”がある。原罪と、腐敗と、さらに加えて“自我”がいまだにある。ああ、もしあなたに、あなたを誘惑するサタンがいないとしても、“あなた”が、あなた自身を誘惑するだろう。あなたに戦いを挑む敵がいないとしても、”あなた自身”があなたの最悪の敵となるだろう。世界がなくなるとしても、“あなた自身”がそこにいれば十分に悪であろう。なんとなれば; (エレミヤ 17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」 


For one moment, peep into the window of thine heart, to observe what is there. Sin is there original sin and corruption; and, what is more, self is still within. Ah! if thou hadst no devil to tempt thee, thou wouldest tempt thyself; if there were no enemies to fight thee, thyself would be thy worst foe; if there were no world, still thyself would be bad enough; for “the heart is deceitful above all things, and desperately wicked.”

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2015年

11月

25日

◆罪は”短剣”◆

”罪”は、人のベッドに”短剣”をしつらえる。どちらに寝返りを打っても、それはチクリとその人を刺すのだ。

 

Sin puts a dagger in a mans bed, so that whichever way he turns it pricks him.


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2015年

11月

14日

◆悔い改めは生涯宿題◆

キリスト者は、決して”悔い改め”をやめてはならない。なんとなれば、彼は“罪を犯す”ことを決してやめないからである。

 

"A Christian must never leave off repenting, for I fear he never leaves off sinning."


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2015年

10月

29日

◆あなたの”回心”の中身は?◆

ただ喜びだけで、罪を悲しむ思いの欠けた回心というものは、極めて疑わしい。

 

"That conversion which is all joy and lacks sorrow for sin, is very questionable."


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2015年

10月

21日

◆今わの際まで間に合います◆

地獄の門のすぐ前で、死の境に横たわる人は、神の光を、天の命を、主イエス・キリストの救いを垣間見るかもしれない。

 

【解説】 臨死体験をした人は、よくこのことをおっしゃるそうです。私たちには、生と死の境界線を越える最後の瞬間まで、救いの可能性が残されているのです。愛する人に、「イエス様を信じよう!」と呼びかける勇気を、神様に与えていただきましょう。

 

You who lie in death’s borders at the very gates of hell may by a look receive the light of God, the life of heaven, the salvation of the Lord Jesus Christ.


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2015年

9月

10日

◆放蕩息子よ、帰れ◆

あなた方の罪悪がどのようなものだったとしても、主は言われる。「脱落してしまった人の子らよ、帰ってきなさい。あなた方は、私のあわれみのうちにいるのだから」と――。

 

【文語訳】

汝らの罪科(つみとが)いかなるも、主、言いたもう。「道を踏み外せし人の子らよ、帰れ。

我があわれみ、なお汝らの上にあればなり」と――。

 

Whatever your crime has been, the Lord says, “Return ye backsliding children of men, for I will have mercy upon you.”


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2015年

9月

07日

◆人の心の醜さは…◆

私は、あらゆる種類の身の毛もよだつ生き物が、次々に腐敗を繁殖させているプールを想像することができる。だが、人間の心のおぞましさに比べたら、その半分に値するものさえいないのだ。

 

【解説】 毎日のようにニュースをにぎわす犯罪、残虐行為、破廉恥行為、宗教の名を借りた破壊と大量殺人行為、児童虐待、動物虐待…、挙げているうちに胸が嫌悪感と悲しみでいっぱいになります。そして、「何であんなひどいことを…」と思う半面、心は神様に向かって叫ぶのです。「主よ、これがあなたを十字架に追いやった人間の罪の現実なのですね。アダムの末の必然の結果なのですね。そんな私たちに対するあなたの極みまでの愛を、どうぞ、この小さな者を用いて、伝えさせてください」と――。

 

(エレミヤ 17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」

(ローマ 5:20「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

 

I can imagine a pool of all kinds of loathsome creatures, breeding corruption, but there is nothing one half so worthy of abhorrence as the human heart.


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2015年

8月

19日

◆がんの特効薬を隠す? バカな!◆

もしあなたが、がんの治療法を見つけたとしたら、それを他の人に隠しておくなんて、思いもよらないことではないでしょうか? だとしたら、罪が支払うべき永遠の報酬からの治療法を隠しておくなんて、それに輪をかけた信じられない愚挙ではありませんか?

~デイヴ・デイヴィッドソン~

 

【解説】“罪が支払う永遠の報酬”とは、永遠の苦痛と死の滅びですね。聖書が高らかに宣言する、その永遠の治療法はこれです!

(ローマ 6:23「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」


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2015年

8月

10日

◆恐怖の言葉、「失われる」◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

―恐怖の言葉、「失われる」―

 

誰にとっても、”失われる”ということは恐ろしいことである。英語の言葉の中で、“lostロスト”(失われる)という言葉よりも恐ろしい言葉を、私は知らない。

 

【解説】 この、人間にとって最も恐ろしい状態から救い出すために、神のみ子が来てくださったのですね。

(ルカ 19:10「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

It is a dreadful thing for anyone to be lost; I do not know if there is a more dreadful word in the English language than that word “lost.”

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2015年

7月

31日

◆罪あるところ、悔い改めあり◆

キリスト者は、決して悔い改めることをやめてはならない。なんとなれば、悲しいかな、我々が罪から離れることは決してないからである。

 

"A Christian must never leave off repenting, for I fear he never leaves off sinning."


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