2018年

6月

06日

◆福音とみ霊に力あり◆

福音をして宣べ伝えさしめよ。み霊をして満たさしめよ。あなたは見るであろう。それが良心を変えさせ、行いを改めさせ、品格を向上させ、邪(よこしま)なる心根を懲らしめ、抑制するのに、どれほど力を持っているかを――。

ああ、かかる私も、地獄から引き出され、裁きから解放された己(おのれ)を見て、どれほど大きな声で賛美すべきであろうか!

 

律法は、自己義認者のため、彼らの誇り高ぶりをへりくだらせるためのものである。

福音は、失われた者のため、彼らの絶望を取り去るためのものである。

 

Let the gospel be preached and the Spirit poured out, and you will see that it has such power to change the conscience, to ameliorate the conduct, to raise the debased, to chastise and to curb the

wickedness of the race.

Oh! how loud ought I to sing, seeing I am out of hell, and delivered from condemnation.

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2018年

5月

18日

◆ネヴァー・セイ・トゥー・レイト(「遅すぎる」と言うなかれ)◆

(1)あなたを待ち続けるのは誰?

誰も、「私は神を待っている」などと言うべきではない。愛兄姉よ、違う、私たち人間の誰が神を待つにもまして、大きなみ手を広げて私たちを待っておられるのは神なのだ。

 

(2)ゆえに“救いの時”にタイムリミットはないのです

人生のどんなに遅い時であろうと、人は回心することができる。その人は、他の誰とも同じように、信じる者への特権と約束を享受できるのだ。自由なる恵みは、惜しみなく与えられ、何人(なんぴと)をも批判することはない。

 

【解説】 神様の定義は、あまたありますが、ここでは躊躇なくこう言いましょう。私たちの神様は、「待ちたもう神」だと。キリスト者の徳の一つである「忍耐」は、実にこの待ちたもう神の忍耐に範をとっています。この真理に目覚めたら、私たちは、「俺は神のお呼びを待ってるんだけど、なかなか来ないんだよ」などとあまのじゃくなことは、決して言えなくなるのではありませんか? 私たちにできることは、欠けだらけの自分を、「私のもとにおいで」と言われる神様の大きなみ手の中に、今、丸ごとお預けすることだけのはずです。

 

そして、神様の忍耐が受け入れてくださる「人生の遅い時」は、実にあなたの今わの際にまで及びます。私たちは、あの十字架上で死の直前に天国に凱旋した強盗の一人と同じです。イエス様はあの時、「お前はどうしてもっと早く私を信じなかった? そうすればお前の悪事はもっと少なくて済んだろう。バカな男だ。お前の悪事がどれほど人の人生を苦しませたか、考えたことがあるか?」などという“批判”は、ひと言もおっしゃいませんでした。「あなたのみ国の座で、(せめて)私を思い出してください」と涙ながらに願った彼に、「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいます」と、“惜しみなき恵み”を、あふれんばかりにお与えくださったのです。

 

これが、「福音」でなくて、なんでしょうか?

 

No man ought to say, I am waiting for God.

No, beloved, it is God who is waiting for us generally, rather than any of us waiting for him.

 

However late in life a man may be converted. He shall enjoy the same privileges and promises as others. Free grace gives freely and does not upbraid.

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2018年

1月

02日

◆ある”ヨハネ3:16”物語◆

何曲かの、いつもの日曜夕拝の賛美歌のあと、その教会の牧師は講壇に向かって歩き出しました。

その夜の説教を始める前に、彼は一人のゲスト聖職者を紹介しました。

牧師は会衆に、そのゲスト聖職者は、少年時代に最も仲の良い友達の一人だったと紹介しました。

牧師はその友人に、教会員にひとこと挨拶と、何かお話をしてほしいと頼みました。

それを受けて、その年配の紳士は講壇に上って、話し始めました。

「一人の父親と息子、そして息子の友達の三人が、太平洋岸からボートで漕ぎ出しました。」

強い嵐が吹き荒れ、岸に戻ろうといろいろやってもダメでした。

波がとても高かったので、ベテランの船乗りである父親も、ボートを平衡に保つことができませんでした。

ボートはひっくり返り、三人は海の中に投げ出されました。」

老聖職者は、会衆の中の2人の少年と視線が合った時、一瞬、ためらいました。

夕拝が始まってから初めて、彼らはどうなるのかと身を乗り出していたのです。

「救命ロープを握ると、父親は人生で最も痛みを伴う決断をしなければなりませんでした。

その命綱を、二人の少年のどちらに投げればいいのか?

とっさのうちにそれを決めなければなりません。

父親は、自分の息子はクリスチャンであることも、友達のほうはそうでないことも知っていました。

逆巻く波の激しさも、彼の決断の苦しみには比べるべくもありませんでした。

父親は、「息子よ、愛してるぞ!」と叫ぶと、命綱を友達めがけて放り投げました。

ほどなく父親は、息子の友達を引き寄せましたが、彼の息子は荒れ狂う波間に消えていきました。

彼の体は、二度と見つかることはありませんでした。」

その間(かん)、2人の少年は会衆席に背筋をまっすぐにして座り、話を聞いていました。

彼らはかたずをのんで、この年老いた聖職者の口から出る次の言葉を待ちました。

彼は、「父親は、イエス様が共にいる永遠の世界の中に、息子が踏み出したことを知っていました。」と続けました。

「彼は、息子の友達が、イエス様を知らないまま、永遠の滅びの中に入っていくことに耐えられなかったのです。

それで彼は、その友達を救うために、息子の命を犠牲にしたのです。

同じことを私たちになさった神の愛は、どんなに大きなものでしょうか?

私たちの天の父は、私たちが救われるために、ご自身の愛する独り子を、犠牲になさったのです。

私は、神様があなたを救おうという申し出を受け入れ、この集会であなたに投げ出しておられる命綱をつかまれることを強くお勧めします。」

こう話し終えると、彼は、会堂がシーンと静まり返る中、身を返してゲスト席に戻り、座りました。

牧師が再びゆっくりと講壇に歩き、短い説教をしたあと、終わりに、会衆に信仰の決心への招きをしました。

けれども、誰一人招きに応じる者はありませんでした。

夕拝が終わってほどなく、先程の2人の少年が、老聖職者のそばにやってきました。

「いいお話でした。」と少年の一人が言いました。

「でも僕には、すごく現実離れしてるように感じました。

なんでその父親は、その友達がクリスチャンになるという希望だけで、自分の子供の命を犠牲にしたんですか?」

「ああ、そこが大切なところだね。」老聖職者は、使い古した聖書にちらりと目をやりながら答えました。

そして、その小さな顔いっぱいに微笑みを広げながら、少年たちを見上げ、こう答えました。

「確かにこれは、すごく非現実的だね。

でも私は今日、この話が“神様もきっとこうだったのでは”と思わせてくれるということを話すために、ここにやってきたんだ。

神様が、この私のために、独り子を犠牲になさった時のお気持ちだよ。よくお聞き、

実は私がこの話の父親で、君たちの牧師先生は、私の息子の友達なんだよ。」

 

https://www.facebook.com/Gods411/videos/10156019139590763/?fref=mentions

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2017年

8月

26日

◆自分の肩か、主の肩か◆

あなたの“罪”が、あなたの背中か、イエス様の背中か、いずれかに負われるとする。もしあなたの背に負われるなら、あなたは“失われた者”となる。もしそれが、キリストのうちに荷を下ろしたら、あなたは“自由”である。さあ、どちらがいいか、選ぶがよい。

―マルティン・ルター

 

【申命記30:19】 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。

 

【解説】あのいかめしいルターの顔を思い浮かべると、この火のような“迫りの言葉”が迫ってきますね。それにふさわしく、この絵の印象的なこと! 分かれ道に立つ子ども。目の前の道は二つ、左は楽園、右は、紅蓮の煙の立ち込める墓場ですよ。これが、神様の目からご覧になる人間世界のリアリティーなのです。気を引き締めて、ご家族に、友人に、救いの福音をあかししましょう。遅すぎないうちに――。

 

"Either sin is with you, lying on your shoulders, or it is lying on Christ ... now if it is lying on your back, you are lost; but if it is resting on Christ, you are free ... now choose what you want."

~ Martin Luther

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2017年

8月

26日

◆命の橋◆

【ローマ6:23】 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

ただキリスト様だけが、「横木・キリストの」「立て木・死」という、たった2本の木片で、神様への橋を架けることができたのです。

 

Only Christ could build a bridge to God with only two pieces of wood.

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2017年

7月

17日

◆福音はトーンダウンされていないか?◆

我が愛する友よ、

福音を、肉なる者(世的な人間)の心に心地よいものにしようとするなかれ。

十字架の真髄が失われぬよう、その”つまずき“を隠そうとするなかれ。

福音の片隅や人目に付かぬところこそ、その力。

そこを削り落とすことは、その力を奪い去ることだ。

福音のトーンを和らげるのは、十字架の力を増すのではなく、

その力をを殺すことなのだ。

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2016年

4月

28日

◆絹糸だけではダメなのです◆

 

“福音”の絹糸で縫おうとしても、それに”律法”の鋭い針で道を刺し通さなければ、無駄なことなのです。

 

~ロビー・フロックハート~

 

 

 

【解説】 これはうまい例えですね。律法と福音の相関関係を示すのに、このように美しく理にかなった例えは初めて見ました。この布地を縫って出来上がり、私たちが着るのは、“信仰の衣”、“義の衣”です。また“新しい人”(エペソ4:24)、あるいはずばり“キリスト”(ガラテヤ5:27)と言ってもいい。その布地の裏は、キリストの血潮で緋のように赤いのですが、外側は、罪を赦されて雪のように真っ白なのです(黙示録3:18)。これを縫い上げていく“福音の糸”は光沢のある美しい絹糸。これで縫い上げたら、最高級の衣が出来上がるはずなのですが、そのままでは用をなしません。”律法”の針で、ところどころ、自我でかたくなになっているところをも鋭く穴を開け、福音の糸が通りやすいように“道備え”をしなければ、布地は一歩も前に進まないのです。

 

 私たちを永遠の救いに導く聖書には、キリストの福音だけが記されているのではありません。モーセの律法も記されて、その高い規準には程遠い私たちの罪の実相と、己の力では守ることのできない肉の弱さをあますところなく指し示したのちに、ただ恵みにより、信仰によってのみ救われる、十字架と復活の福音が語られます(エペソ2:8、9)。旧約の律法の道備えがあって初めて、新約の福音は、“救いのよき訪れ”になるのです。これが、パウロをして、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11:33)と感嘆せしめた、神様の救いのご計画でした。この選びのご計画の中に、このような者まで入れていただき、“白い義の衣”を着せられて、かなたに栄光の王の待つ信仰の馳せ場を歩むことを許されている。これを”驚くべき恵み”と言わずして、なんというのでしょうか?

 

 

 

It is no use trying to sew with the silken thread of the gospel unless we pierce a way for it with the sharp needle of the law.

 

-Robbie Flockhart-

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2016年

4月

05日

◆福音がフルに受け入れられたら◆

 

福音が、全世界を通してくまなく受け入れられたら、全ての奴隷制と全ての戦争は一掃されることであろう。全ての酒浸りも、社会悪も跡を絶つであろう。実際のところ、福音が取り除くことのできない道徳的な冒涜行為はもはや想像もできなくなるであろう。身体を損傷させる悪も、それらの多くは罪に付随して起こるのだから、大いに軽減されるであろうし、その中のあるものは、永遠に廃止されるであろう。

 

 

 

【解説】 この一文を読んだ私たちの反応は、現実のおぞましさを考えて、悲観的になるか、やがてこれが成就することを考えて希望を託すかのいずれかでしょう。私は、そのいずれも否定できない正常な反応だと思います。

 

現実には少しもそうなってはいないどころか、スポルジョンの生きた1世紀前よりも、さらに状況は世界的に悪化しています。それほどに、神に背いた人間の罪の結果は深刻なのです。そして聖書は、終末に向かって、人間の悪は満ちると預言していますので、この事実に悲観はしても、絶望することなく、神様の救いのプロセスの中で、冷静に受け止めなければなりません。けれども忘れてはならないことは次の2つです。1つは、”福音には、究極において、世界を一新する力がある”という真理に対する、揺るぎない信頼です。そしてもう1つは、その福音の宣教を、神様は弱さと欠けだらけの私たちに委ねられたという厳粛な事実です。イエス様は、昇天なさる時、「私は全世界に出ていって、福音を宣べ伝えよう」とは言われず、「(あなた方が)全世界に出ていって、福音を宣べ伝えなさい」と言われたのです(マルコ16:15)。この全世界”は、あなたの隣の“一人”から始まります。神の国は、どんなときにも、“からし種一粒”から始まるのです。ですから私たちは、この福音の力に信頼しながら、自分の隣の“あの方”に、今日も、明日も、祈りを込めて証しの業を続けてまいりましょう。

 

(Ⅱテモテ 4:2 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

 

(Ⅰコリント 15:58 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

 

 

 

The gospel, if it were fully received through the whole earth, would purge away all slavery and all war, and put down all drunkenness and all social evils; in fact, you cannot conceive a moral curse which it would not remove; and even physical evils, since many of them arise incidentally from sin, would be greatly mitigated, and some of them for ever abolished.

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2016年

3月

14日

◆古く新しい福音の真髄◆

 

福音の核心は“贖い”である。そして贖いの真髄はキリストの“身代わりの犠牲”である。

 

 

 

The heart of the gospel is redemption, and the essence of redemption is the substitutionary sacrifice of Christ.

 

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2016年

2月

28日

◆福音を語らざるは災いなり◆

 

もし私たちが、永遠の福音を宣べ伝えなかったら、福音には一文の価値もない。“不確かなもの”なら、なんであれ、どこであれ得ることができるが、”永遠のもの”を手にすることができるのは、「聖書」の中だけなのだ。

 

 

 

If we do not preach an everlasting gospel, the gospel is not worth two pence. You may get anything uncertain anywhere else; it is in the Bible alone that we get everlasting things.

 

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2016年

2月

08日

◆狼のままでは危険です◆

 

法律は、オオカミを鎖でつなぎ留めるかもしれない。しかし、オオカミのように貪欲で残忍な性質を変えるのは、“福音”なのだ。

 

~サミュエル・ボールトン~

 

 

 

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2016年

1月

29日

◆福音はただ一つ◆

 

福音を、私よりも良く語れる人は他にいるかもしれない。

 

だが“より良い福音”を語れる人など、どこにもいはしないのだ。

 

~ジョージ・ホィットフィールド~

 

 

 

Other men may preach the gospel better than I, but no man can preach a better gospel.

 

-George Whitefield-

 

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2015年

10月

22日

◆この古く新しき福音を信ぜよ◆

罪ある人々よ。あなたは神に呪われるか、その呪いをあなたに代わって受けてくださったキリストを受け入れるかのいずれかでなければならない。私は衷心よりお願いする。己の魂を愛する人として、もしあなたに精神の健全さが残っているならば、この祝された、そして神の定めたもうた救いの道を受け入れよ。この福音は、使徒たちが宣べ伝え、それを守るために苦しみ、死んだ真理である。宗教改革者たちが闘ったのもこのためである。殉教者たちがスミスフィールドで火に焼かれたのもこの故である。(訳注: ロンドン北西にあり、16世紀に異端者磔刑の地として知られた。)これは宗教改革の大前提となる教義であり、神の真理中の真理なのである。

 

Sinners—you must either be cursed of God, or else you must accept Christ, as bearing the curse instead of you. I do beseech you, as you love your souls, if you have any sanity left, accept this blessed and divinely-appointed way of salvation. This is the truth which the apostles preached, and suffered and died to maintain; it is this for which the Reformers struggled; it is this for which the martyrs burned at Smithfield; it is the grand basis doctrine of the Reformation, and the very truth of God.


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2015年

9月

27日

◆神の福音に”力”あり◆

「福音」は、真の信仰者にとっては、“力”に関することである。それは“神の力”なるキリストである。しかり、神の福音には、あらゆる解説を超えて、“力”があるのだ。

 

" The gospel is to the true believer a thing of power. It is Christ the power of God. Ay, there is a power in Gods gospel beyond all description.


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2015年

9月

26日

◆本来のキリスト教◆

本来のキリスト教とは、伝道旅行に出かけたり、大々的な伝道会議を開いたりすることではありません。本来のキリスト教は、数十年にもわたって、しっかりとした基本にとどまり続けるものです。

~マイク・ビックル~

 

【解説】 「本来の」と訳した原語のradicalラディカルは、よく「急進的」と訳されますが、それは第二義で、ここではそう訳しては意味を成しません。この語の第一義は、「本来の」「根本的な」「基礎の」という意味です。「何事も基本が大事」「基本に帰れ」とは、様々な研究分野でも、スポーツの世界でも言われることですが、キリスト教信仰においても、それは真理です。私たちは、この日本においても、福音を伝えるためにいろいろなことを試みます。方法論は、時代とともに変わっていいのです。いえ、変わらなければ、今の若い人たちの子心をつかむことはできません。でもその中心的なメッセージは、聖書において完成されています。イエス・キリストが語られ、聖書に記された福音は、いつの時代にも、古く、新しい“良き知らせ”なのです。今日の一言を伝えたマイク・ビックルは、現代アメリカの代表的なメッセンジャーの一人で、まさしく各地の伝道集会で用いられている神の器ですが、その彼が言うこの言葉は、彼が神様に用いられているゆえんですし、私たちも改めて、忘れてはならない大切なことに気づかされるのではないでしょうか。

 

Radical Christianity is not going on a missions trip or a big conference. Radical Christianity is staying steady for decades.

-Mike Bickle-


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2015年

9月

21日

◆私の福音理解◆

昨今では“カルヴァン主義”と呼ばれるものを宣べ伝えずして、十字架につけられたキリストの宣教はあり得ないというのが私の個人的見解である。私には自分自身の考えがあり、それをいつでも大胆に述べている。それを“カルヴァン主義”と呼ぶのは、あだ名である。カルヴァン主義は”福音”であって、それ以外の何ものでもない。もし私たちが、業によらない信仰による義認を、あるいは恵みの付与における神の卓越性を宣べ伝えずして、あるいは選びや、不変にして永遠、全てに打ち克つ神の愛を褒めたたえずして、福音を宣べ伝えることができるとは信じない。はたまた私たちが、福音の基礎を、ご自身が選ばれた人々のためになされたキリストの特別の贖いに置かない限り、福音の宣教が可能だとは信じない。そしてまた、聖徒たちが召されたのちに再び堕落したり、神の子たちが信じたのちに永遠の断罪の炎に苦しむことを教える福音など、理解することはできない。かかる福音は、私の忌み嫌うものである。聖書の福音は、そのようなものではないのだ。私たちは、十字架につけられたキリストを、別のやり方で宣べ伝える。そして全ての反対者に対しては、こう答えよう。「我々は、キリストを、そのようには学ばなかった」と――。(訳注: エペソ420

 

I have my own private opinion that there is no such a thing as preaching Christ and him crucified, unless you preach what now-a-days is called Calvinism. I have my own ideas, and those I always state boldly. It is a nickname to call it Calvinism; Calvinism is the gospel, and nothing else. I do not believe we can preach the gospel, if we do not preach justification by faith, without works; nor unless we preach the sovereignty of God in his dispensation of grace; nor unless we exalt the electing, unchangeable, eternal, immutable, conquering, love of Jehovah; nor do I think we can preach the gospel, unless we base it upon the peculiar redemption which Christ made for his elect and chosen people; nor can I comprehend a gospel which lets saints fall away after they are called, and suffers the children of God to be burned in the fires of damnation after having believed. Such a gospel I abhor. The gospel of the Bible is not such a gospel as that. We preach Christ and him crucified in a different fashion, and to all gainsayers we reply, “We have not so learned Christ.”


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2015年

8月

28日

◆福音は”分割”されない◆

神は決して福音の“分割”はなされない。ある人には”義人”を与え、他の人には“聖化”を与え、また別の人には“聖さ”を与えるなどということはなさらないのだ。しかり、これらは全て統合的になされていく。神は、ご自身のもとに召された人を“義”とされ、義とされた人を“聖化”され、聖化された人をやがて“栄化”されるのだ。

 

God will never divide the gospel. He will not give justification to that man, and sanctification to another; pardon to one and holiness to another. No, it all goes together. Whom he calls them he justifies; whom he justifies, them he sanctifies; and whom he sanctifies, them he also glorifies.


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2015年

8月

26日

◆これぞ”福音”の神髄◆

我たちの聖なる信仰の中心は、“十字架”である。

全キリスト教の中心をなす思考は“キリスト”であり、キリストの生涯の最大の焦点は“十字架”である。

私たちはキリストを宣べ伝える。―いや、それ以上だ。―我々は、“十字架につけられたキリスト”を宣べ伝えるのだ。

――C.H.スポルジョン

 

【解説】(Ⅰコリント1:2223)「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」


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