2017年

10月

23日

◆墓のかなたの喜び◆

私たちは、一人また一人と、“死”による別れを嘆き悲しんできた。

だが私たちは、もはや墓場の存在しない、永遠の地へ行こうとしているのだ。

 

【解説】 私自身も、17年前に母を、15年前に義母(妻の母)を、7年前に義弟(妻の妹の夫)を、そして2年前に義兄(妻の兄)を亡くしました。それぞれに、生前良き交わりを頂き、かけがえのない家族でした。あなたにも、愛する人を亡くされた悲しみの記憶がきっとおありだと思います。しかもその記憶は、決してとどまることがなく、一つ、また一つと増えていき、やがて自分も、残された人の記憶の中に入る日が確実に訪れるのです。それが人の世のならいです。でも、主イエス・キリストを信じる者は、この地上の命を終えても、たちどころに“永遠の地”へ移されるのです。(“墓場の存在しない地”というスポルジョンの描写が新鮮で心に迫ります。)私たちは、かの地で、永遠に主と共に、主を賛美しつつ生きられるだけでなく、主にある人々と再び相まみえることができます。冷たい死の墓の向こうには、大いなる喜びが待っているのです。この希望の中に、愛する人を、一人でも多くくわえることができるように、今日もこの人のために、あの人のために、主にとりなしをせねばと祈らされます。

 

(ヨハネの黙示録21:3,4) 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

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2017年

1月

17日

◆今日も、漂うのですか?◆

私たちは、“永遠”という名の大海原に近づいていく”時”という名の川に沿って、漂っているのだ。

 

【解説】 スポルジョンには珍しい、何やら哲学的瞑想にいざなう一節ですね。仏教の時の概念が”円”(輪廻)であるならば、キリスト教のそれは“線”です。しかもそれは不可逆線で、決して引き返すことができません。まっすぐに終末と永遠の世界に向かって延びているのです。スポルジョンは、この線を川に例え、永遠の世界を大洋に例えました。多くの人々は、自分の乗った船がどこに行くかも知らないまま、日々漂っています。目的地を持たない人生は“漂流人生”です。いつしか流れの中で朽ち果てるか、やっとたどり着いた先は永遠の滅びです。友よ、大洋の深みに向かってこぎ出すのです! 人生の川は時には大揺れに揺れます。でも、しっかりと舵を定めた船は、もはや漂うことなく、着実に前に向かって進んでいくのです。はるかな、しかし信じる者には確かに待っている、主と共なる永遠の大海原を目指して!

 

We are drifted along the river of time nearer to the ocean of eternity.

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2016年

12月

17日

◆翼を広げて◆


あなたの“翼”を広げなさい。
“命”には、隠された力があり、
それは、“生きる”ことによって、
初めて見いだされるのです。
  ~キルゲゴール

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2016年

6月

06日

◆備えは、いかにや?(2)◆

 

ああ、私は請い願う、あなたは自分自身を愛するごとく、ご注意めされよ!

今からでも、“永遠の命”という厳粛な事柄の重さを、心して量り始められることだ。

 

Oh, I beseech you, as ye love yourselves, take care! Even now begin to weigh the solemn matters of eternal life.

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