2017年

12月

16日

◆”服従”への神の評価◆

1)半端な服従は、完璧な不服従である。

2)もし私たちが神の命令どおりに事を行って、成功したように見えないとしても、私たちの落ち度ではない。私たちが“服従”においては失敗しなかった限り、“失敗”それ自体は、“成功”と言えるからだ。

 

【解説】 改めて、”服従”に対する人間の規準と神の規準の違いを考えさせられますね。

1)において際立つのは、人間の規準の甘さと、神の規準の厳しさです。私たちは、ともすると「できるところまでは従ったんだから」と、神への服従に自分で限界を許容しようとしますが、神様はきっぱりと、「それは不服従と全く同じだ」と言われるのです。原文を“%”入りで訳すと、「50%の服従は、100%の不服従である」ということです。

2)においては、神様が問われるのは、どんな場合でも、「あなたは私の戒めに本当に従いましたか?」ということだけ。結果については一切問われないということです。結果が大成功であろうが、惨めに失敗しようが、神様には全く同じ、意に介されないのです。神様の目は、「たとえどんな結果になろうとも、神の言われるとおりにしよう」という私たちの心の“意志”にだけ注がれます。その結果、失敗したとしても、神様は言われるのです。「よくやった。あなたの、この世的な”失敗”は、私に従ったという一点において、この天においては“成功”なのだ」と――。

 

1) Half obedience is whole disobedience.

2) If we do as God commands, and do not seem to succeed, it is no fault of ours. Failure itself would be success as long as we did not fail to obey.

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2017年

3月

18日

◆現代版”イエスを信じる者の誓約”◆

私はキリスト者です。
それは、私がイエス・キリストのみ足の跡に従うために、最善を尽くすということを意味します。
*イエスは他国人を愛しました。
*イエスは“難民”でした。(訳注:マタイ2:13-15)
*イエスは権力や特権を拒否しました。
*イエスは、「互いに愛し合うべきです」と言われました。
*イエスは国家によって激しい苦痛を味わわれました。
*イエスは国家によって処刑されました。
*イエスは、暴力では事は成らないことを示されました。
*イエスは「謙遜でありなさい」と教えられました。
*イエスは「平和をつくる人でありなさい」と教えられました。
*イエスは「正義を愛しなさい」と教えられました。
*イエスは、神は誇り高ぶる者に抗(あらが)われると語られました。
*イエスは、尊大な者、暴力、その時代の権力構造を糾弾されました。

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2016年

5月

11日

◆感謝のあとには服従が◆

 

キリストのようであれ。なんとなれば、感謝は服従を必要とするからだ。それによって、この世は、あなたがイエスと共に歩んでいることを知るであろう。

 

 

 

【解説】 現代人が最も嫌がる言葉の一つは“服従”でしょうね。その嫌う程度は、自我の確立と共に高まっていきます。これは、キリスト者と言えども例外ではありません。そこでスポルジョンは、その点でもキリストに倣うべきことを勧めます。我らの主は、最後の十字架の死に至るまで、父なる神に従い通されました(エペソ2:8)。ゲッセマネの祈りに見られるように、人となられたイエス様には、内なる人との大いなる戦いがありましたが、それは決して嫌々ながらの服従ではありませんでした。イエス様には、いつも父なる神様のみ心を行うために地上に遣わされたことへの感謝がありましたし、ご自身のみ心を、父なる神様が弟子たちに表してくださったことへの感謝もひとしおでした(マタイ10:24)。パウロにしても、迫害者であり罪びとのかしらである自分を福音に仕える者にしてくださった神様への、言葉に尽くせぬ感謝がありました。それゆえにこそ彼は、自分の体を打ちたたいてでも、主のみ心に忠実に従ったのです(Ⅰコリント9:27)。このように、私たちが喜んで神様に服従できるのは、湧きあふれる感謝と喜びがあるからです。服従を伴わない感謝は、上辺だけの感謝です。そしてこの服従のあるところに、神様はさらにたまものを増し加えてくださいます。感謝―服従―たまものの付与。これが神様の祝福のサイクルなのです。上よりのたまものを求める人は、まずみ言葉への絶対的な服従から始めなければなりません。それが“イエスと共に歩む”ということであり、“イミタチオ・クリスティ=キリストに倣う”ということです。

 

 

Be like Christ, since gratitude demands obedience; so shall the world know that ye have been with Jesus.

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2016年

4月

07日

◆服従: 信仰が創り出すもの◆

 

“信仰”は速やかな“服従”を創り出す。

 

 

 

【解説】 神様は、“無”から“有”を創造するお方です。(創世記 1:2 「地は茫漠として何もなかった。」状態から、神様はこの世界の全てを、有形の物も、無形のものも、お言葉によって創られました。この”服従”もその一つです。天地も、全ての被造物も、そして最後に人間も、生きとし生けるものは、全て創造主のみ言葉「○○あれ」に“服従”することによって生み出されました。しかし人間は、与えられた自由意志を悪用して、初めて父なる神様の戒めに服従せずに、善悪の木の実を食べて、初めての罪を犯しました(創世記3:17)。その瞬間に、この“服従”という最も美しい徳も消えたのです。しかし神様もまた、その人間の堕罪の瞬間から、“信仰”による救いの道を備えてくださいました(同3:15 原福音)。こうして、罪のゆえに失われた”服従”は、”信仰”によって、再び信じる者の心のうちに創り出されるようになったのです。ですから、しかと覚えていましょう。神に逆らって罪を犯した人間の内に、まことの服従心はもはやありません。この世界の争い、混沌、無秩序は、全てここから生まれています。”服従”は、肉なる自分の内にはひとかけらもないもの、神様を信じた瞬間に、神様ご自身が再び創造してくださるたまものなのだということを―。この罪の世に、神様に服従することには、多くの困難と、戦いと、犠牲が伴います。でも、そのために支払われたみ子の十字架の犠牲に比べたら、何ほどのものでしょうか。私たちが神様への服従を貫くときに、神の被造物である私たちの住むこの世界の様々な秩序が、あなたの周り(家庭、地域社会、職場、教会)から回復していきます。私たちは、“服従”の生み出す大いなる祝福を、享受できるようになるのです。

 

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