2020年

2月

04日

◆教会に行き、教会をつくろう◆

1.《まずは教会へ!》

今度の日曜日、教会に行きましょう。

イエス様が死者をも立ち上がらせることができるのなら、

あなたもきっと、ベッドから起き上がることができます。

【解説】ハハハ、“日曜日は寝てよう日”の方へのユーモラスな勧めです。最後の2行がそのユーモアで、日本語でもそれなりに分かりますが、原語では、「レイズ・フロム・デッド/ライズ・フロム・ベッド」と韻を踏んだ言葉遊びになっています。

(ヘブル10:23-25) 「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

Go to church this Sunday. If Jesus can raise up from the dead, surely you can rise up from the bed.

2.《サタンの恐れる教会をつくろう!》

サタンは、【大きな】教会は怖くない。

サタンが恐れるのは、【和合した】教会です。

【解説】サタンの力をもってすれば、「大きな教会」など恐るるに足らず。“党派心”“ねたみ”“批判”などの種を数粒蒔けば、あれよあれよという間に瓦解させることができます。でも、下の聖句のように、教会員が「和合し(口語訳)、一つになって共に住む」教会、「一心同体」のように結束した教会(いずれも原語unitedユナイテッドの意味)は、付け入ることができないのです。私たちが、初代教会をモデルとして、互いに愛し合い、へりくだってお互いのたまものを喜び、仕え合うとき、サタンは「こりゃダメだ。勝ち目ナシ」と退散することでしょう。

(詩篇133:1) 「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」

The devil does not fear a big church. He fears a united church. (by Jesus is Lord)

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2019年

10月

01日

◆家族: 聖書の教会観◆

キリストは、まるで本当の“家族”のように、調和の内に愛し合う教会を創ることができるし、お創りになると私は信じます。

~フランシス・チャン~

I believe Jesus can and will create a church that looks like true family, loving in unity.

-Francis Chan-

 

クリスチャンがどこにいようと、彼らは自分の“家族”だという態度を、私はとっているだろうか?

~ジョン・パイパー~

Do we have an attitude that wherever Christians are they are family to us? – John Piper

 

“父”は、神の最も個人的な呼び名です。なぜなら、“家族”が、神の究極のゴールだからです。

~アイザック・ベネット~

‘Father’ is God’s most personal title, because family is His highest goal. —Isaac Bennett

 

(エペソ 1:23) 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

(エペソ 2:19-22) 「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

【解説】 これが聖書の掲げる教会観であり、それに基づいて、「神の家族」という名前を冠している教会もあります。そしてジョン・パイパーが言っているように、この家族は地上のある場所に建てられた教会に限定されません。私もまた、このFB上で“神の家族”を打ち立てるというビジョンを示され、時と労力をささげて誠にささやかな試みを続けています。この教会観は、ある意味“理想”像ですが、現実には、様々な問題があります。人間関係の破れもあります。しかしそれは、人間の罪がなせることであって、私たちはその痛みをも共に負いながら、この聖書の理想のもとにいつも立ち返り、やがて神様が完成してくださる日まで、その実現を目指して努力しなければなりません。それが、ご自身のみ体なる教会の主、イエス・キリストのみ心だからです。

 

【FBギャラリー】No.89 アンドルー・ルーミス「戦時下の教会」

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2018年

7月

18日

◆神の選びの教会◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆ 

Charles Spurgeon - The Prince of Preachers

―神の選びの教会―

 

神の選びの教会は、

天の寵愛せるもの、

キリストの宝、

その頭(こうべ)にかぶれる冠、

その腕にはめたるブレスレット、

その心に当てたる胸当て、

その愛の真髄にして

彼の最も心を寄せたるものなり。

 

【解説】 この19世紀の偉大なる福音宣教の先達の、“神の教会”への一級の賛辞を日本語にするには、現代文では軽きに失しますので、文語にしてみましたが、いかがでしょうか。

ここで考えなければならないのは、1つは、ひょっとして”神に選ばれない教会”というのはあるのだろうか、という問題ですが、答えは、異端の教会を別にすれば、はっきりと「ノー!」です。全ての教会は、“神の選びの教会”です。なんとなれば、その教会をかたちづくる私たち一人一人が、神の選びと召しにあずかっているからです。

2つ目は、この実に美しい“教会賛歌”は、果たして今の自分の教会に当てはまるのだろうか、という疑問です。“神の教会”と言いながらも、あなたの教会には、全く問題はありませんか? 人間関係は良好ですか? 牧師と信徒の間ではどうですか? 「全て良好です」と言える教会は、おそらく一つもないのではないでしょうか? かく言う私の教会も、牧師と信徒の高齢化、会員減少、新しい受洗者が与えられない…と、問題は山積みです。しかしそのような、多くの問題を抱えた一つ一つの教会に対し、神様は、「我が宝、我が冠、我が最も心を寄せるもの」と呼んでくださるのです。なぜなら、この地上の教会に連なる私たちは欠けだらけの者ですが、この群れは、神のみ子がご自身の命をもって贖われた、“キリストの体”だからです。私たちは、自らのうちに、そして自分が集う教会の中に、様々な“破れ”と“ひずみ”を見るときにこそ、この神様の“選び”の目で、イエス様の“十字架の愛”の目で、見つめ直す必要があるのです。そのときに、不満と裁きの目には見えなかった、この教会に注がれている神様の“あわれみと恵み”のみ手が、はっきりと見えてきます。そしてこの“キリストの体”への新たな献身の思いと、兄弟姉妹への暖かい主に在る愛が、静かに心の深いところから湧き上がってくるのを体験なさるはずです。

 

(エペソ 1:23) 「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

 

The elect church is the favorite of heaven, the treasure of Christ, the crawn of His head, the bracelet of His arm, the breast plate of His heart, the very center and care of His love.

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2018年

1月

13日

◆ローマも教会も一日にしてならず◆

私たちは、“救霊”は、教会員名簿により多くの名前を性急に加えていくことによって成し遂げられるとは考えていない。

 

”ローマは一日にして成らず”、地域教会も一週にしては成らないのだ。人は、誰もが福音を初めて聞いて、その全てを受け入れるわけではない。イエスのために魂に食い入ることは、薪(まき)を割るのにどこか似ている。そのために私たちは、くさびを使う必要があるが、その一端は極めて細身で小さくはあっても、打ち込まれるほどに、その裂け目は大きくなっていくのである。

 

新しい回心者は、教会の“血管”に、新鮮な血潮を流し込んでくれる。

 

【解説】 これは、出典の異なるスポルジョンの3つの救霊論文からの抜粋ですが、”救霊”の業の労苦と喜びを、“くさび”と”血管”という巧みな例えを使って、実に的確に描いていると思いませんか? そして編訳しながら私が改めて心を探られたのは、私たちは、最初の部分の、いたずらにクリスチャンを“粗製乱造”して、名簿に教会員数が増えていくことに満足するか、あるいは最後の部分のように、かつて新しい信仰者の救われた喜びの証しを涙して聴き、彼らが主のためにいきいきと奉仕する様を心から感謝した日の記憶をいつの間にか忘れているかの、どちらかではないのか、ということでした。“救霊”と教会員数の増加は、本質的に似て非なるもの、後者は前者からの結果であって、断じて教会の目指す目的ではないのです。また、日本の教会に今一番必要なのは、一人の魂が救われたときの群れを挙げての喜びを取り戻すことです。そのために何よりも大切なのは、忍耐を持って、今与えられている求道者の人たち、祈りに覚えている友や家族の心に、“み言葉”のくさびを、忍耐を持って打ち込み続けることではないでしょうか?

 

We do not consider soul winning to be accomplished by hurriedly inscribing more names upon our church-roll.

Rome was not built in a day, nor will a parish be saved in a week. Men do not always receive all the gospel the first time they hear it. To break hearts for Jesus is something like splitting wood: we need to work with wedges that are very small at one end, but increase in size as they are driven in.

The new converts put fresh blood into the veins of the church.

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2017年

10月

13日

◆存在権のない教会◆

もし教会が...
異教徒や無神論者を教え導き、
悪と戦い、
誤りを打ち砕き、
偽りを“こき下ろす”ためにあるのでなく、
貧しき人々の側に立ち、
不法を糾弾し、
神の義を高く掲げるためにあるのでなければ、
その教会は“存在する権利”を持たない。
(訳 小川政弘)
A church that does not exist to reclaim heathenism, to fight with evil, to destroy error, to put down falsehood, a church that does not exist to take the side of the poor, to denounce injustice and to hold up righteousness, is a church that has no right to be.

 

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2017年

8月

01日

◆人が最高にうれしい時◆

最高にうれしい気持ちになるのは、

他の人は当たり前と思っていたのに、

誰かが、あなたの全てを感謝してくれた時です。

 

【解説】 “あなたの全てを”と言うのは、全人格的な受容と感謝を表しますが、具体的には、それはその人の個々の行為や言葉に対してなされるべきです。それは、この最高のうれしさを知っているあなただからこそ、できることです。どんな小さなことでもいいのです。「今日の礼拝の前奏、よかったよ。おかげで“賛美心に”なった。」「あなたの笑顔を見ると、ほっとするの」。「一度言おうと思ってたんだけど、君の作るチラシのデザインって、サイコーだね。知りたい情報が、ぱっと飛び込んでくる。」 こんな一言が、実はその時、「誰も私の苦労を分かってくれない。なんかむなしい。やめちゃおうかな」と思っていた誰かを救うのです。もちろん私たちが主のためにささげる奉仕や犠牲は、キリストの命と引き換えにあがない取られ、主のものとなった私たちには“当たり前”のことです。でもそれは当の本人にとってそうなのであって、周りの私たちが、決してそう思ってはいけないのです。「あの人だから、あんたにいいたまもの持ってるんだから、やって当たり前。できて当然」と思うのは、人の悪しき“慣れ”、感謝を忘れた心にいつしか巣食う、ひそかな“傲慢”です。どうぞ、次の機会に、あの人に会ったら、ぜひ一言の感謝と褒め言葉を言ってあげてください。その効果は、あなたの想像以上のものです。それは、その人にとって、他の何にも勝る、強力な“霊のカンフル剤”になるのです。そうやってお互いに人の徳を具体的に高め合うとき、命のない、死んだような教会が、よみがえります。なぜなら、それこそが、キリストが身をもって示された、“キリストの体なる教会”の、真の姿だからです。

 

(ローマ12:10) 「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

(ピリピ2:3-5) 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」

 

The best feeling is when someone

appreciates everything about you that someone else took for granted.

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2017年

6月

07日

◆”無用の教会”にならないために◆

個人のことでも、地域社会のことでも、人々の幸せと福祉のために進んで役立とうとしていない教会は、“無用の教会”です。

口では死後の天国を説きながら、今生きていて、愛の触れ合いを求めている人々のために、今日、今この時に、ほんのささやかな善きわざもできないとしたら、私たちもまた役に立たない“無用の存在”なのです!

~サミュエル・C・リー~

 

【訳者ひとこと】この写真は、教会のドアと共に、「天国の鍵」は、地上にいる私たちが、今、この時に、天の恵みが必要な人々のために、開くべきことを示しているようです。

 

A church that is not willing to contribute to the wellbeing of humanity both on individual and community level, is a useless church. It is useless for us to preach paradise after death, when we cannot even make a little difference for those who are now alive and need a touch of love, right now, today!

 

--Samuel Lee

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2016年

8月

22日

◆教会にいる人って誰のこと?◆

 

私の友である教会リーダーや牧師の方々へ。

 

“教会”は、この世的な意味でのビジネス会社でもなければ多国籍企業でもありません。いわんや教会は、ゴッドファーザーをトップに戴くマフィア組織でもありません。そして、教会の中に“存在している”人々は、私たちの顧客でもなければ、寄り集まった何人かでもありません。全く違います。彼らは、私たちの家族の一人一人なのです。ですから私たちは、彼らに仕えることによって、主に仕えなければならないのです。

 

~サミュエル・C・リー~

 

 

 

To my fellow leaders and pastors: Church is not a business or a multinational corporation in a worldly sense, nor is the church a mafia organisation with godfathers on top. And those who "are" in the church are not our customers, digits or numbers, not at all--they are our family members, and we have to serve the Lord by serving them.

---Samuel C. Lee

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2016年

8月

13日

◆災いは壁の内側から◆

 

神の教会にとって、その建物の壁の内側にいながら、その“いのち”の中にいない人ほど、多くの損害を与える者はいない。

 

 

Nobody can do as much damage to the church of God as the man who is within its walls, but not within its life.

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2016年

3月

16日

◆神の家族、神の国の市民◆

 

私たちは、別の時代の、恩寵のうちにある民である。

 

私たちは、“聖なる国”の市民なのだ。

 

~ステュアート・グリーヴズ~

 

 

 

【解説】 これは、“普遍教会”(時代と場所を超えた、大いなる天の教会)のことですね。私たちはこの地上において、神によって生を与えられた時代と置かされた場所にある教会で、”神の家族”として、クリスチャン生活を送ります。この地上の家族には、どんなに愛し合っていても、やがて終わりがあり、別れの時が来ます。でも、私たちは、その地上に在ってすでに“普遍教会”の一員ですから、地上の歩みを終えると、晴れてこの”聖なる国”の市民として迎え入れられるのです。このようにして、この大いなる“天の教会”は、主が再び来られて完成する時まで、それぞれの時代の、愛された主の民によって、形づくられ、増し加えられていくのです。この途方もない恩寵と、与えられた天の身分のかたじけなさを考えたら、地上の神の家族が、些細なことで分かれ争っている場合ではないと思いませんか? あえて“恩寵のうちにある”と訳した原語belovedは、「最愛の」「大切な」という意味です。キリストの十字架のゆえに一つとされた私たちは、地上の様々な違いを超えて、神様の目から、そしてお互いに、「最愛の」「かけがえのない」存在なのです。この恵みと祝福を知らない多くの同胞のために、私たちは心して、この地上の教会を、本当に主のご愛に満ちた“キリストの体”につくり上げなければならないのです!

 

 

 

We are citizens of another age, beloved.

 

We are citizens of a holy nation.

 

-Stuart Greaves-

 

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2016年

1月

07日

◆教会:神が応えられるところ◆

 

もし私たちが共に集まれば、天が応えてくださるということには、確実性があります。それは、長い年月にわたって、教会を支えてきた“現実性”です。また、それこそは、神様が私たちに、“それに依って生きるように”と望まれる現実性なのです。

 

~ウェス・ホール~

 

 

 

(マタイ 18:20 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 

 

 

【解説】 教会は”エクレシア”、神に召し出された者の群れです。そこに私たちを召される神様の主権がありますが、召された者はどうするのか。まず一つところに共に集います。そして、召されたお方との霊の交わり=礼拝をし、祈りをささげます。その祈りに神様が応えてくださるのです。そして召された者たちが、み言葉を宣べ伝え、互いに愛し合い、主の聖餐を守り、信じた者にバプテスマ(洗礼)を施し、キリストの体なる教会、神の家族が形成されていきます。これが、神様の真実であり、私たちが目の当たりにすることのできる“霊的現実”です。その意味で、教会は、”召された者の群れ”であるのと表裏一体をなすように、“神に応えられた者の群れ”なのです。現実には、人間の生来の罪が、この教会の中にも様々な問題を引き起こしますが、私たちがどんな場合にも、そう、危機的状況の中にあっても、決して忘れることなく、いつもそこに立ち返り、それに依り頼み、また一歩を踏み出すべき原点は、幾世代を乗り越えてきたこの”霊的現実”であることを、今一度心にとどめましょう。

 

 

 

There’s a certainty that if we gather together, heaven will answer; that’s the reality that has sustained the Church through the ages. And that’s the reality God wants us to live by.

 

-Wes Hall-

 

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2015年

9月

13日

◆”キリストの体”には、あなたが必要です◆

もしキリストが、ご自身の民を一人失うなら、もはや彼は“完全なるキリスト”ではありえない。もし彼の最も小さき者が“破船”の憂き目に遭うなら、キリストはご自身の“十全性”の一部を欠くことになる。しかり、キリストは、“彼の教会”なしには、不完全なのである。

 

If Christ lose one of his people, he would not be a whole Christ any longer. If the meanest of his children could be cast away Christ would lack a part of his fullness, yea, Christ would be incomplete without his Church.


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2015年

9月

13日

◆”キリストの体”にはあなたが必要です◆

もしキリストが、ご自身の民を一人失うなら、もはや彼は“完全なるキリスト”ではありえない。もし彼の最も小さき者が“破船”の憂き目に遭うなら、キリストはご自身の“十全性”の一部を欠くことになる。しかり、キリストは、“彼の教会”なしには、不完全なのである。

 

If Christ lose one of his people, he would not be a whole Christ any longer. If the meanest of his children could be cast away Christ would lack a part of his fullness, yea, Christ would be incomplete without his Church.


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2015年

8月

12日

◆❝教会”の好みは神と人では違います◆

この世が最も気に入る教会こそは、間違いなく、神が忌み嫌われる教会である。

 

【解説】この世が(=サタンが!)最も気に入る教会とは、講壇から甘い愛と心地よい癒やしは語られても、私たちの全ての問題の根源である”罪”と、キリストの十字架の死と復活による完全な”救い”が語られない教会、いつも優しく受け入れてくれ、決して傷に触れることなく、ぬくぬくとしていることができる教会、神様のために進んで自らをささげ、労することを求められない教会です。自分が大事にされ、”安全”で、毎週良い気分で帰れる教会、これがこの世の人々に最も気に入られる教会ですが、それは、ボンヘッファーが言うところの”安価な恵み”のあふれる教会です。主の十字架の血潮で贖い取られた神の教会であることが忘れられ、そこで新しく生まれ変わり、キリストを生涯の”主”として、霊の家族である兄弟姉妹と共に、このお方のために進んで犠牲を払うことのない教会です。誰にも言わなかった悩みを初めてありのままに打ち明けて、共に涙し、どんな小さなことでも、我がことのように手を取り合って喜んでもらう友のいない教会です。何よりも、神のみ名だけがあがめられ、賛美されることのない教会、これが、”世に気に入られ、神が忌み嫌われる教会”なのです。これは、決して他人事でも、”教会ごと”でさえもありません。キリストの体である教会に連なる私たち一人一人は、どうでしょうか? あなたはこの世を喜ばせていますか? 神様を喜ばせていますか?


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2015年

8月

11日

◆チェック&ファイト、あなたの”世俗度”◆

◆チャールズ・スポルジョン “説教者のプリンス”◆

Charles Spurgeon The Prince of Preachers

―チェック&ファイト、あなたの“世俗度”―

 

私の信じるところは、なぜ神の教会が、現時点において、世に対してかくも小さな影響しか与えていないかという一つの理由は、この世が、教会に対してかくも大きな影響を与えているからだ。

 

【解説】 まるで150年前のスポルジョンが、天国から、現代の日本に、そして全世界の教会に語りかけているような言葉ですね。”世俗化”の大きなうねりに対して、教会はいよいよ厳しく闘っていかなければなりませんが、その闘いは、他の誰でもない、あなたの闘い、私の闘いなのです。


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