2019年

1月

09日

◆スポルジョンの説く救いと信仰のキモ◆

救うのは、偉大な信仰ではなく、“まことの信仰”である。

そして救いは、信仰の中にあるのではなく、信仰が寄り頼む“キリスト”の内にある。

熟慮すべき点は、信仰の程度ではなく、信仰の“誠実さ”である。

 

【解説】 さすがスポルジョンの“三段論法”は、一段一段、大切なポイントを衝いていますね。では、今日は、彼なら、このように解説するかもしれない、という語調で、説き明かしてみます。

第1段: 人を救うのは、“偉大な信仰”ではない。もしそうなら、救われる人は極めて少ないだろう。そもそも“偉大な信仰”などというものは、人間の評価であり、神の前には存在しない。神がご覧になるのは、たとえからし種一粒ほどの小さな信仰であっても、いかに真実に、偽りなく、心から神の救いを信じたかにあるのだ。

第2段: しかしながら、いかにあなたの信仰が真実であっても、“救い”は信仰そのものの中にあるのではない。徹頭徹尾自己中心な人間は、ともするとそう考えてしまう。そのとき、信仰は己の“業”になる。人は己の業である信仰を誇り、それによって自分は間違いなく救われているという錯覚に陥る。そこにはもはや、神の“恵み”は存在しない。大切なのは、信じる“対象”である。私たちの救いは、私たちが救い主と信じ、主としてより頼む、“イエス・キリストご自身”のうちにのみある。“業”というなら、キリストが、私の罪の身代わりに十字架の上で命を捨てられ、三日目によみがえられた、あの”救いのみ業”そのものの中に、私たちの救いはあるのだ。

第3段: 最後に、私たちが深い洞察を持って、正しく理解しなければならないのは、“信仰”というものの内実、核心は何なのか、神が最も大切なものとしてご覧になるのは、私たちの信仰の、どのポイントなのかということだ。私がmeasure“程度”と言ったことの中には、信仰歴、神学の学歴と得た学位、関わった働き、そのために得た肩書、著した本の数…、など、およそ数字的に測りうる全ての外面的な評価を指す。しかしながら、それをもって神のみ前に出ようとするならば、神はたちどころに顔を背けられるであろう。それらのものは、人には誇れても、神に対して誇れるものではない。(Ⅰサムエル16:7)「人はうわべを見るが、主は心を見る。」 信仰の核心は、人に見せるうわべの“計測値”ではなく、神に包み隠さず見せるあなたの心の“信頼度”―あなたが、どんな場合でも、いかに誠実に、陰ひなたなく、ありのままで神を信頼してきたか、それだけなのだ。

 

It is not great faith, but true faith, that saves; and the salvation lies not in the faith, but in the Christ in whom faith trusts. It is not the measure of faith, but the sincerity of faith, which is the point to be considered.

0 コメント

2017年

4月

27日

◆”ほとんど救われた”ではダメなのです◆

”ほとんど救われている”というのは、要するに“失われている”のと同じことだ。

地獄には、かつて“ほとんど救われた”が、今は全く呪われている人々が大勢いる。

 

【解説】 “何とか救われてほしい”という思いが先走って、相手が少しでも“信じた気配”が見えると、それをもって安心して導きの手を緩めてしまう。それが、”ほとんど救われた”人、そしていつの間にか信仰から離れていく人を大量につくり出している原因だとスポルジョンは言います。すなわち救霊の“詰め”が甘いのです。魂を信仰に導くとき、私たちは;

① まずその人が自分の口で、はっきりと「私はイエス・キリストを私の救い主、主として信じ、受け入れます」という信仰告白をすることができるようにしてあげなければなりません。ただし、それを“強要”してはいけません。忍耐をもって、“神様の時”を待つべきです。

② そして、その後の信仰生活の基本である、聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席すること、証しをすること、喜んで献金をすること、などをしっかり教えなければなりません。“鉄”は熱いうちにしっかり打ち鍛えないと、弱さともろさを抱えたまま、すぐに冷えていきます。

これは、牧師の責任であり、私たち先に救われた者の責任なのです。

 

(ローマ10:9,10)

10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ12:11,12)

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 

Almost saved is altogether lost. There are many in hell, who once were

almost saved, but who are now altogether damned.

0 コメント

2017年

4月

21日

◆二つの園◆

聖書とは、二つの園の物語です。

一つは“エデンの園”、もう一つは”ゲッセマネの園“です。

最初の園で、アダムは、つまずき倒れました(=堕落)

二つ目の園で、イエスは立ち上がったのです。(=救霊)

~マックス・ルケード~

0 コメント

2016年

12月

08日

◆恵みは常に上を行く◆

人は大いなる罪びとである。
だがキリストは、さらに大いなる救い主なのだ。

 

(ローマ 5:20) 「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」

 

You are a great sinner, but He is a greater Saviour.

0 コメント

2016年

11月

22日

◆救いはゴルゴタのみにあり◆

救いが、我らの外にあるということを信じるのは、すばらしい知らせではないだろうか?

~マルティン・ルター~

 

【解説】 律法学者やパリサイ派の人々は、神の律法を細部まで守るという、人には決してなしえないことで神の誉れを受けようと考え、悪しき律法主義のかせを人々にはめて苦しめました。その彼らに対し、“業によらず、ただ信じることによって救われる”と説き、あのゴルゴタの十字架で身代わりに命を捨てて、人々の心にある罪の縄目を解き放ってくださったのが、イエス様の福音でした。しかしキリスト教の歴史の中で、いつしか無代価の救いの喜びの福音は、再び中世のローマカトリックの人間的権威の中に、その命を失っていきました。商売人たちは、権力の庇護を求めて財による救済を図り、聖職者たちは権力の座を目指して功徳を積むために、自らのうちに業(修行)による救いを求めました。ルターもその一人だったのです。その彼が、教皇庁の石段を、一段一段、すりむけた膝で登る苦行をしていた時に、忽然として心に響いてきたのが、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4、ローマ1:17)という神の声でした。彼は、自分の業のうちに救いはつゆだになく、それはあのキリストの十字架と復活を信じる信仰のみにあると、全身が震えるような感動の中で悟ったのです。
これは、その彼の言葉です。“救い”は、私たちの内には――自らの学力にも、地位にも、家柄にも(たとえ牧師の家に生まれても)、財力にも、そしてどのように善き業を施しても、どこを探し求めてもありません。救いは、“外”に、あのゴルゴタの十字架の主を仰ぐことの中にのみある。それが、まことの”すばらしい知らせ”、福音なのです。

 

Is it not wonderful news to believe that salvation lies outside ourselves?
-Martin Luther-

0 コメント

2016年

4月

12日

◆業によって救われるなら◆

 

たとえ良き業による救いが可能だとしても、自分がなした業が救われるに十分だと確信できる者は、ただの一人もいないのだ。

 

 

 

【解説】 そうなんですね。もし良き業によって救われるとしたら、まず第一に、神様の救いの公平性、平等性が失われてしまいます。業には、必然的に、量的にも、質的にも差が生じるからです。そして何よりも、そこには、ここをパスしたら大丈夫という“合格点”、“到達点”がありません。そのため人は、心の中で、いつも“これではまだ不十分だろうか? それともこれだけやったんだから、もう救われているだろうか? 分からない…。もっと良き業を重ねないと…。”という不安と確信のなさで、結局死ぬまで不毛な努力を続けることになります。人生で、これほど悲惨なことがあるでしょうか? けれども古来、人間の多くの宗教は、この悪しき”律法主義”を、救われるため、安心立命に至るための絶対条件として掲げてきました。キリスト教の異端の中にも、“これしか救われる道はない”と教え込まれて、日々むなしい努力を続けているグループがあります。

 

(エペソ 2:8,9 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

私たちが救われるための代価は、イエス様の貴い命によって既に支払われたのです。私たちは、ただ信じるだけで、救われます。この“福音”の恵みを改めてかみしめましょう。

 

(エペソ2:10 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 

そして、この恵みに安住することなく、喜びと感謝のうちに、神様がすでに備えてくださった良き業をもって、主に仕えてまいりましょう。

 

 

 

Even if salvation by good works were possible, no man can ever be sure that he has performed enough of them to secure his salvation.

0 コメント

2016年

3月

24日

◆あなたの業ではダメなのです◆

 

人間の業によって救われる! それはあり得ない! ああ、不可である。あわれな教条主義者は、あたかも粉ひき場をグルグル回る盲(めし)いた馬のごときである。はたまた懲罰用の踏み板を登る囚人のごときで、どうあがいても上には登れないことを悟るのである。(訳注: ハツカネズミの回転踏み板のようなもの。)彼には信頼に足る確信もなければ、そこに安んじることのできる堅固な地盤もない。業には十分になし得たということがない。“永遠に不十分”なのだ。良心は絶えずこう言おう、「これは完全ではない。もっとよくなっているはずだ」と。神の敵対者の救いは、一人の“大使”によらねば、一つの”贖い”、しかり、キリストによらねばならぬのだ。

 

 

Saved by your works! It is impossible! Oh no; the poor legalist is like a blind horse going round and round the mill, or like the prisoner going up the treadmill, and finding himself no higher after all he has done; he has no solid confidence, no firm ground to rest upon. He has not done enough-”never enough.” Conscience always says, “this is not perfection; it ought to have been better.” Salvation for enemies must be by an ambassador-by an atonement-yea, by Christ.

0 コメント

2016年

3月

23日

◆あなたの業は一つも要りません◆

 

私たちが、”救いは恵みだけによる”ということを、始終忘れてしまうというのは本当である。私たちは、自分自身の“善行”のほんのかけらを、それに付け加えたがる。救われるために、自分でも何かをしたいのだ。

 

 

 

It is true we constantly forget that salvation is by grace alone. We always want to be putting in some little scrap of our own virtue; we want to be doing something.

 

0 コメント

2016年

2月

28日

◆いとも良きもの、既に我が内にあり◆

 

私たちは、神様に多くのことをお願いしますが、このお方から頂くことのできる最高のものは、既に与えられているのです。

 

~マット・ブラウン~

 

 

 

【解説】 私たちが既に与えられている”最高のもの”、それは言うまでもなく、神の独り子“イエス様ご自身”であり、イエス様がご自身の命と引き換えにお与えくださった、“永遠の命”ですね。これこそは、私たちの祈りの基礎、基盤です。したがって、私たちは何を願い求めるにしても、この基礎、基盤に立ち、そこから出発し、その一事をいっときも忘れてはならないのです。たとえ求めたものがそのときは得られないとしても、あなたがこの“原点”に立ち返るとき、あなたの心には、喜びと感謝しか残らないはずです。

 

 

 

(マルコ 8:36 「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

 

(ローマ8:32 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 

 

 

We ask God for many things, but the greatest thing we could ever receive from Him has already been given.

 

-Matt Brown-

 

0 コメント

2015年

12月

30日

◆だから”新生”を語るのです!◆

 

この“新生”は、全ての宗教の中で、最も神秘にして不可解なものである。もしあなたが何を語っても、”新生”さえ避ければ、いつであれ聴衆の受けはいいだろう。だが、あなたが天に入るための必然である“新生”に固執するなら、必ずそこには激しい変化が生じることになろう。これは聖書の教理であるにもかかわらず、概して人間にとってはあまりに不快なテーマなので、彼らがあなたに耳を傾けることは、まずないと言っていいだろう。 

 

【解説】 なぜこのテーマが不快なのでしょうか? それは、私たちに、自分の”罪”と直面させ、”罪人”である自分を認めさせることになるからです。ビリー・グラハム博士は、「人間が一番言いたくない3語、それは“私は 悪い 人間だ”(I am wrong)という言葉です。」と語りました。確かにこれさえ避ければ、説教者は、また証し人としての私たちは、どんなテーマでも自由に語れます。相手を傷つける心配がないからです。でも、でもです。この“認罪”なくしては、人は新しく生まれることはありません。どんなに正しい、立派な善行をしても、神の国に入ることはできないのです。愛する人に、どんなにつらく厳しくとも、“認罪と悔い改め”の必要を、そしてそのあとに待つ“新生”の喜びと恵みのすばらしさを、上よりの力を頂いて、語りましょう。 

 

(ヨハネ3:3 「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」 

 

This new birth is the mysterious point in all religion. If you preach anything else except the new birth you will always get on well with your hearers; but if you insist that in order to enter heaven there must be a radical change, though this is the doctrine of the Scripture, it is so unpalatable to mankind in general that you will scarcely get them to listen.

 

0 コメント

2015年

10月

28日

◆神の救いの処方箋◆

イエス・キリストに在って、神を信頼するように人を導く。――これが、神が人を救う方法である。

 

"This is how God saves men—by leading them to trust in Him in Jesus Christ."


0 コメント

2015年

10月

07日

◆”救い”とは、イエスとの交わりに入れられること◆

”救い”とは、地獄を逃れることよりもはるかに大きな意味を持っています。私たちは、燃えるような心を持った神様との交わりに招かれているのです。私たちの文化は、”美しく”あることに取りつかれていますが、神様は、ご自身のみ子、“イエスの麗しさ”をもって、永遠に私たちを装ってくださいます。そして、み父がイエス様を愛されるのと同じ激しさをもって、彼はあなたを愛しておられます。イエス様は、あなたと関わりを持つことに、決して“退屈”なさるようなお方ではありません。実際のところ、神様は、あなたが弱いときにさえ、あなたとの絆を楽しんでいてくださるのです。それゆえ、神様は私たちの存在を喜ばれるという事実を私たちが確信しているなら、もし私たちがつまずいたとしても、私たちは“彼から”逃げるのではなく、“彼のもとに”駆け込みます。

~マイク・ビックル~

 

Sulvation is much more than escaping hell. We are called into fellowship with the God of the burning heart. Our culture is obsessed with being beautiful, but God will adorn us forever with the beauty of His Son. And with the same intensity that the Father loves Jesus, He loves you. Jesus is never bored in His relationship with you. God actually enjoys His relations with us, even in our weakness.Thus, when we are confident in the fact that God delights in us, then when we stumble, we will run to Him instead of from Him.

-Mike Bickle-


0 コメント

2015年

9月

26日

◆それ汝ら我を選びしにあらず◆

ああ、あなたを救うのは、あなたがキリストをつかんでいるからではなく、キリストがあなたを抱いているからだというのは、なんというあわれみであろうか! あなたを救うのは、あなたがどのように彼の手をつかんでいるかではなく、彼があなたの手をつかんでおられるからだというのは、なんと心安らぐ事実であろうか。

 

(ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

 

Ah! what a mercy it is that it is not your hold of Christ that saves you, but his hold of you! What a sweet fact that it is not how you grasp his hand, but his grasp of yours, that saves you.

 


0 コメント