2019年

11月

19日

◆他者のために生きるキリスト者◆

1.《貧しい人に真に仕える》

教会は、貧しい人々への“仕え人”であるべきなのだから、その富がこの世の貧しい人々を助けることに向けられ、用いられないとしたら、それは私たちの過ちなのです。

~シーザー・チャヴェズ~

【解説】 “過ち”と訳したfaultフォールトは、”落ち度、責任、罪“とも訳し得る言葉です。“教会の罪”というのは、本来あってはならないことです。もちろんそれは、積極的な罪であるわけではありません。教会の罪は、しばしば“不作為の罪”―なすべきことをしない罪です。したがって、心をいつも教会がなすべきことにフォーカスしておかないと、ともすると忘れられ、過ちを犯していることにも気づかないのです。“教会の目”は、絶えず“貧しき人々”(霊肉ともに)に向けられていなければなりません。

Since the church is to be servant to the poor, it is our fault if that wealth is not channeled to help the poor in our world. – Cesar Chavez

 

2.《行政に働きかける真の力》

“貧しい人々のための力”が本当に意味するところは、その能力、協働性、断定性、積極性を、国の権力機構が「ノー(やりたくない)」と言いたいときに「イエス(やります)」と言わせるために用いることができるということだ。

~マーティン・ルーサー・キングJr.~

【解説】 このように言ったキング牧師は、想像を絶する忍耐と命がけの勇気をもって、あのワシントン大行進を実践し、公民権運動を勝利に導きました。彼は優れたリーダーですが、その成功のカギは、人々の心に働きかけ、彼らを目的のために一致させたことです。決して一人でできることではなかったのです。“協働性”と訳したtogethernessは、かのケネディー大統領も、世界平和のために、アメリカにとどまらず、全世界に呼びかけたTogether!(一緒に!)という言葉の名詞形です。香港では、遂に死者を出しながらも5か月にわたる市民の戦いが続いていますが、私たちキリスト者も、貧しい人々、弱い人々、少数者の権利を守るために、時としてこの“力”を結集させなければなりません。それは個人としての参加であっても、“キリストの体”の一部としての働きなのです。

Power for poor people will really mean having the ability, the togetherness, the assertiveness, and the aggressiveness to make the power structure of this nation say yes when they may be desirous to say no."

Rev. Dr. Martin Luther King, Jr

 

3.《どのように“神”を見せられるのか?》

キリスト教信仰とは、“他者”に関心を持つことです。人々がすぐ目の前で飢えているのに、数千万、数億円の教会堂を建てることではありません。

キリストは、目の前にそのような人がいると知ったとき、“革命的”な行動を起こしました。

それが、“神”とはどういうお方かを語る全てです。そしてそこから、私は生きる“力”を頂くのです。

Christianity is being concerned about [others], not building a million-dollar church while people are starving right around the corner. Christ was a revolutionary person, out there where it was happening. That's what God is all about, and that's where I get my strength.

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2019年

10月

28日

◆立ち止まって考えたい人生の真実◆

1.《賛美と黙想で生きるパワーを》

もし手元に“音楽”がないときは、“沈黙”がある。

そのいずれにも、パワーがあるのよ。

~ジョーン・バエズ~

【解説】 あの「ウイ・シャル・オーヴァーカム(勝利を我らに)」で知られる、アメリカ・フォーク音楽界の女王の言葉です。(ちなみに彼女は私と同じ年、78歳です。)マーティン・ルーサー・キング牧師とも手を携えたクリスチャンでもある彼女は、この言葉の本当の意味を知っていたと思います。“沈黙”と訳したsilenceには、「静寂、黙祷」という意味もあります。すなわち、この言葉を信仰的に読み替えれば、「賛美、そして黙想、そこから神様の力を頂きましょう」ということです。私はこの2月から、半世紀ぶりに独りの生活に戻りましたが、今、とりわけ彼女の言葉の確かさに浸っています。あなたも、忙しい毎日の中で、ぜひこの時間をつくり出して、上からのパワーをもらってください。

If you don’t have music, you have silence. There is power in both. – Joan Baez

 

2.《貧乏は罪ですか? ネバー!》

金(かね)が偶像になるところ、

貧しきことは罪となる。

~ウィリアム・ストリングフェロー~

【解説】 恐ろしいほど真実を突いた言葉です。偶像は、それを拝しないものの存在を許しません。金銭が拝すべき唯一の神になったとき、貧困は忌むべきもの、あってはならいないもの、なんとしても避けるべきもの―畢竟、貧乏であることは罪となるのです。その罪を逃れるために、人は悪しき知恵を巡らし、人をおとしめ、裏切ってまでも、金を求め、金に仕えようとします。それが“マモン”(富の邪神)の恐ろしさです。

 貧乏は決して罪ではありません。人は貧しさの中で、”生きる”ことの真の意味を考えます。生きることの大変さを知り、生き抜くことの知恵としたたかさを身に着けます。それにも増して、貧しさにあるからこそ、人の情けの有り難さを知り、それでも必要を備えられ、生かされている神の愛を、身をもって知るのです。

Where money is an idol, to be poor is a sin.-William Stringfellow

 

3.《行動が全てを語るのです》

私は、だいぶ前から信じるようになったわ。

人は、自分が言っていることの半分も本気では考えてない。

だから、人の話は無視して、その行動だけで判断するのが一番だって――。

~ドロシー・デイ~

【解説】 これもまた実に辛辣な人間の真実です。彼女の言っていることは少々“過激”ですが、でも、「人の言葉は、行動に現して初めて真実になる」という究極の真理を伝えるには十分ですね。でも、この言葉はそのまま自分に返ってくるのです。私は、人がしてくださった約束は、なぜかよく覚えています(ほかのことは片っ端から忘れるのに!)。そして、それをたとえ時間がかかっても守ってくださったときには、心から感謝しますが、守ってくださらないときは、それを“他山の石”にします。「私はどうか? 言ったことを責任を持って果たしているか?」と。かの日には、私たち一人一人は、神の前に立たされて、地上での生き方の申し開きをしなければなりません。誰の目にも明らかな罪は犯さなかったかもしれない。けれども、私が間違いなく主に問われるのは、このことです。「あなたは、自分の言葉に誠実だったか?」と――。

I have long since come to believe that people never mean half of what they say, and that it is best to disregard their talk and judge only their actions. – Dorothy Day

 

【FBギャラリー】No.97 「貧しき祈り」(我が身を重ねつつ…)

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2019年

9月

11日

◆真実を知るべき本当のワケ◆

1 《悪と善の実体を知るべき本当のワケ》

“想像的な悪”は、ロマンティックで多様性に富んでいます。“本当の悪”は、陰鬱で、単調で、不毛で、退屈なものです。

“想像的な善”は、退屈なものです。“本当の善”は、どんなときも新しく、信じられないほどすばらしく、心を酔わせます。

~シモーヌ・ヴェイユ~

【解説】 この20世紀フランスの女性思想家の言葉は、人生の深淵を衝いています。善と悪について考えたとき、想像の世界と現実では、その性質が全く逆転するということです。したがって、これは想像世界の中の善と悪を、決して現実の中に持ち込んではいけないという彼女の“警鐘”でもあるのです。

Imaginary evil is romantic and varied; real evil is gloomy, monotonous, barren, boring. Imaginary good is boring; real good is always new, marvelous, intoxicating. – SimoneWeil

 

2 《主の復活がすばらしい本当のワケ》

イエスの復活の良き知らせは、私たちはやがて死に、主と共に“天の家”に帰るということではなく、主はよみがえり、飢えて、裸で、渇いて、病んでいる、ご自身の全てのきょうだいたちを引き連れて、“私たちの家”に帰ってこられるということなのです。

~クラレンス・ジョーダン~

(ヨハネ14:19) 「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」

【解説】 私たちは、主のよみがえりを、“眠った者の初穂”として、やがて私たちがこの世を去るときの同伴者としてのみ考えがちですが、そうではない。復活の主は、まず現実に、私たちの内に“インマヌエルの主”として生きていてくださいます。そしてかの日には、この世では報われなかった多くの人々を引き連れ、もはや死も苦しみも悲しみもない新天新地を完成なさるために、再びこの地上に降り立たれるのです。主の復活の本当のすばらしさは、私たちから死の恐怖を取り去り、苦しみ多き現実を生きていく勇気と力を与え、すでに地上を離れた愛する人々と共に、やがて霊の体によみがえり、主と共に永遠に生きる希望を与えられるところにあるのです!

The good news of the resurrection of Jesus is not that we shall die and go home to be with him, but that he has risen and comes home with us, bringing all his hungry, naked, thirsty, sick prisoner brothers with him. - Clarence Jordan

 

3 《似て非なるものを見分けるべき本当のワケ》

好ましさは、優しさと同じではありません。

礼儀正しさは、尊敬と同じではありません。

単なる丁寧さは、温和さと同じではありません。

施しは、公正さと同じではありません。

立派さは、善良さと同じではありません。

寛容は、愛と同じではありません。

~マーク・ヴァン・スティーンウィク~

【解説】 この両者を識別するのは、現実には極めて難しいことです。いずれも、カギは心の内部の問題だからです。共通して言えることは、それぞれの前者は人の外面に現れた良い態度、後者は内面の真の性質です。私たちは、前者のような態度で他者から接せられる場合でも、自分が他者に対して示す場合でも、それが後者のような性質と動機からなされているのかを、問わなければいけません。後者から出たものではない前者は、イエス様が最も激しく問われた“偽善”につながるからです。最後の1行などは、あのⅠコリント13:4「愛は寛容であり」をすぐ思い浮かべて「え?」と一瞬驚くのですが、この寛容は、まずその前の1~3節、「愛がなければ」で問われなければならないのですね。

Niceness isn't the same thing as kindness. Politeness isn't the same thing as respect. Civility isn't the same thing as gentleness. Charity isn't the same thing as justice. Respectability isn't the same thing as goodness. Tolerance isn't the same thing as love.

Mark Van Steenwyk

 

【FBギャラリー】No.82 キャスリン・フィンチャー「よしよし、いい子ね」

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